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【オーストラリア研究】東京大学教養学部地域文化研究分科アジア・日本コースを2019年3月に卒業した人間の卒業論文を公開します

掲題の通りなのですが、学生の時に書いた学士論文が発掘されたので久々に読み返してみたら、めちゃめちゃ面白いというか、このまま新書で出版してもいいだろ、って感じの出来だったので、ここにアップロードしておきます。

私はアカデミアの人間ではなく、また博士号はおろか修士号さえ保持しておりませんので、この論文は学問的価値を有する書き物ではありません。どうぞ、皆さんのお手元で、煮るなり焼くなりご自由になさってください


論文の内容

オーストラリアのジョン・ハワードという政治家の人生を振り返りながら、彼が「オーストラリア人」という人種をどう考えていたのか、その考えを公的空間でどう語っていたかを探っていくものです。

ハワードは日本で言うところの安倍晋三とか石原慎太郎みたいな、保守的なパッとしない素朴なオジサンという感じの政治家なのですが、90年代後半から00年代前半は絶大な人気のあった人です。07年に自身が落選する形で政界を引退しますが、最終的に戦後歴代2位の長期政権を築きました。まだ全然生きてます。

この論文の骨子を抽象的に要約すれば、「アイデンティティ」の構築には、「自己」の合わせ鏡となる「他者」を必要とするということです。自分はこんな人にはなりたくない、あんな奴らとは違う、そういう気持ちが遡及的に「自己」の輪郭を描いていくと私は考えます。ですから、個人がどのような「自己」を確立するかは、どのような「他者」を見出すかに大きく依存しているのです。

ハワードが描いた「オーストラリア人」という「自己」の合わせ鏡になった他者は、わたしたち「アジア人」でした。キリスト教世界で内面化した勤労、自律、家庭愛といった価値観を共有していない「他者」として日本人や中国人を批判して見せることで、「オーストラリア人」という自己の輪郭を鮮明なものにしたのです。そして、そのような自己定義のあり方が、多くの「主流派」オーストラリア人の精神性に共鳴したからこそ、彼は大きな支持を得たのだと思います。


論文を書いた背景

私が卒業論文を書いていたのは2018年頃です。この頃の日本は自民党一強で、未来永劫安倍政権が続くんじゃないかしらとさえ思える空気が漂っていました(今もそうですね)。政治空間では彼の側近だった保守政治家や知識人が、社会的価値をめぐる分断を巧みに動員しながら、安倍晋三への国民の支持を強固なものにしていました。いわゆる「リベラル」の政治家や知識人も、この頃から「ネトウヨ」的言動によって思想信条の違う相手を罵倒することに終始するようになりました。相手を理解するためのコミュニケーションである「対話」の作法が、公的な言論空間から消え去っていくのを実感する日々でした。

ある日、安倍晋三が選挙戦の街頭演説で自身に批判的なヤジを飛ばす集団に対して、「私たちは、こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」と言い放ちました。このシーンをテレビのニュースで見たとき、「これは私の実存に対して投げかけられた問いだ」と直感しました。声を上げる群衆、それに囲まれた安倍晋三の高揚した表情、指さされて批判される抗議団体。「言葉」が分断を作り出す瞬間、そこには「排除」と「包摂」の境界線が目に見える形で立ち現れていました。

私は自身の政治信条に取り立てて過激な党派性を認めませんし、この事実を安倍晋三批判として取り上げるわけではありません。強調したいのは、あらゆる「言葉」に、「自己」と「他者」の境界線を引きつつ、誰かを「排除」し、他の誰かを「包摂」をする作用があるということです。そして、私たちが関係の網の目の中で生きている以上、ある関係において「排除」の対象となる人が、異なる関係においては「包摂」されていることは常にあり得ます。ある状況では強者の立場を取れる人が、異なる状況では弱者になる、というのは、ごく普通にある話です。

私は「こんな人たち」として糾弾される人間であり、同時に「こんな人たち」を指さして罵倒する人間でもあります。「言葉」が引く境界は、個人の安寧の拠り所にも、実存を脅かす暴力にもなりえます。このような捉え方に立つとき、「言葉」は分断を煽る政治的手段であり、動員の道具として「言葉」を利用しようと試みることには、高い合理性を認めることができます。

しかし、私は「相互理解」のツールとしての「言葉」を信じる人間であり、その立場を変えたことはこれまで一度もありません。「言葉」は暴力だという前提から出発することで、はじめて「相互理解」の手段としての「言葉」にたどり着くことができると私は考えます。己も他者も、常に自他の境界を「言葉」で分断しようとする言語作用の中で生きていかねばなりません。自分の「言葉」が今ここで生み出す境界線の向こう側に、いつだって「こんな人たち」がいます。だからこそ、私は常に自分自身の「言葉」が生む境界を引き直す作業を怠るべきではないと考えます。

なにも、難しいことを言っているわけではありません。「こんな人たち」だと思っていたあの人に、自分に内在する「何か」と似たものを見出そうとするべきだ、と言っているのです。線の向こう側にいる「こんな人たち」をつぶさに観察し、気が向いたら線を越えて少し近づいてみよう。そして、耳を澄まして彼らの「言葉」を聞いてみよう。最初は何もわからないかもしれないが、ある日少しだけわかる日がくるかもしれない。そうなったら、自分もそこで「言葉」を交わしてみよう。そんなことを繰り返してある日、ふと気がついたら「こんな人たち」がこちら側に来てしまう瞬間が来る。そんなことを可能にするのも、また「言葉」なのです。

「言葉」が生み出す境界線が絶対普遍であることはあり得ません。だからこそ、「言葉」の生み出す分断の内側に安住することなく、日常的に「相互理解」のための「言葉」の実践を繰り返すことが、今ここにある境界線を、秩序を撹乱する手段になり得るのです。ある日気がついたら、「こんな人たち」だと思っていたあいつも友達になっていた。そんな「言葉」の可能性を信じ続けることが、人に誇れるものの何一つない自分が持ち続けている倫理的な使命であると、今も昔もずっと思い続けています。


Disclaimer

  • 誤植とか、文章が変な部分もいっぱいあるのですが、直すのも面倒なので許してください。

  • 卒論でオーストラリアを取り扱おうと思っていて、たまたまこの論文に辿り着いた数奇な方に向けては、僭越ながらアドバイスがあります。オーストラリア政治は日本語文献が極端に少ないので、英語が苦手ならやめておきましょう。文献は、英語圏ならJudith BrettとGhassan Hageの本を必ず読みましょう。Paul Kellyとかもジャーナリズム寄りですが良いと思います。(労働党の方をやりたい人は、すいませんあんまわかんないです。)社会学的な手法だと、塩原良和先生や関根政美先生の類稀なる功績があるので、だいぶ手をつけやすいと思います。歴史系なら夭逝された保苅実さんの「ラディカル・オーラル・ヒストリー」を必ず読みましょう。移民研究、多文化主義研究などは日本語文献の蓄積も多いのでおすすめです。

  • 当時はすごく評価してもらうことができまして、一高賞という教養学部の優秀論文にも推薦してもらえたのですが、「一次文献が英語のみだった」という折伏しがたい理由で分科の優秀賞止まりとなりました。ちくしょ〜〜〜!!ロシア語の文献でも入れておけばよかったぜ。

  • もし奇遇にも東大の学生の方がこれを読まれていたら、そして更なる奇遇にも教養学部の方が読まれていたら、阿古智子先生に宜しくお伝えください。その節は大変お世話になりました、メディアでのご活躍は日々拝見しております。お子様はお元気でしょうか?

  • 今は退官されましたが、北米科の西崎文子先生、遠藤泰雄先生には論文執筆のアドバイスをいただきました。意味がわからないことに、私はアジア科を主専攻、北米科を副専攻にしていまして(普通サブメジャー制度を同じ学科で適用する人はいない)、アットホームな北米科の雰囲気が好きだったのでよく入り浸っていました。お二人ともお変わりないでしょうか?こちらも奇遇にも目に留まった方がいれば、よろしくお伝えください。

  • 駒場には普通の図書館とは別にアメリカ・太平洋図書館とかいう謎の施設がありまして、西崎先生に頼み込んでそこの予算でオーストラリア研究の文献をしこたま買ってもらいました。後輩の皆さん、駒場にオーストラリア研究の本がたくさんあるのは、実は私のおかげなんですよ・・・!

ご質問等あれば、Twitterやメールにご連絡ください。物書きの仕事とかめっちゃしたいのでその筋に縁がある方とかいたらお願いします。

soutathesouta1111@gmail.com


追記:

東京大学で表象文化論を専攻されている博士課程在学生の藤田奈比古さんが感想を書いて送ってくれましたので、ご本人の許可を得てこれも添付しておきます。身に余る光栄でございます。ありがとうございました。


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