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点前の変遷と理想

 点前。点法という流派もある。お点前。お点法。
 茶道の稽古に通えば、まず始めに学ぶ身体の動きが、客の前で湯を点ずる方法「お点前」だ。
 茶道には、歴史、思想、道具、料理、香、花、建築、など多くの要素があるが、そのような言語化された知識ではなく、非言語化された知識を点前から学ぶ。薄茶の平点前ができる頃には、ひとつひとつの動きが茶席の進行を秩序付ける拍子木の役割を担っていることも、ある程度は理解し始め(点法者がある動きをすると、客人がある動きをする)、たしかに理にかなったものだと納得する。
 何事も点前を覚えることが、第一であることは否定できない事実だ。なんでこんな窮屈な動きをしなければならないのかと始めは思うが、不思議と慣れていくとその動きが最も楽な動きと感じるようになる。

 また、自宅で飲むなら点前を省略しても良いや、と思って抹茶を飲もうとすると、
1、「お湯を沸かす」
2、「茶碗温めて拭う」
3、「お茶の粉入れる」
4、「お湯注ぐ」
5、「茶筅で点てる」
と、結局のところ、お点前と要点が同じになる。
 反対に、平点前から動きをどれか取りなさい、という指事を受けたら、どれを取って良いかわからない。これ以上ないほどに削ぎ落とされた動きである「点前」、それが流派ごとに幾通りもあるのだから、興味は尽きない。

点前の変遷

 茶の湯黎明期における点前のことは、実のところよくわかっていない。江戸中期頃からようやく茶書に点前が具体的に出てくるが、それまでは個々の動きが記されるくらいで、特に利休の頃などの点前の全体像を把握することは難しい。

 千家流の最初の点前の書は、元禄3年(1690)に出版された『茶道便蒙抄』だ。この書の原本はその10年前に山田宗徧によって描かれている。その後、松尾宗二の『敝帚記』が享保7年(1722)、川上不白の『不白筆記』などが挙げられる。

 私は千家ではないのでよくはわからないが、これらの書に記されている点前と今の点前では、だいぶ違うらしい。

 茶道便蒙抄を読むと、炉の薄茶点前は、「釜の蓋を閉めないことが変わるだけで、他は特にない」と書いてある。帛紗の四方捌きもない。茶筅は軸を点前に出さず、穂先を向こう側に出していた。濃茶のお湯も、今は二回に分けて注いでいるが当時は一回だけ、水指の蓋の露は建水の上で払う。また、茶碗が戻ってきたら、湯を入れて右手の指で汚れを落としたそうだ。仕覆は、点前中に水指脇に置くときは口を手前に。拝見の際は、袋の口を客側に向ける。など。
(参考『茶の湯の歴史』神津朝夫)

利休の点前は遠州流の点前と酷似

 上記を遠州流であった私が見ると、非常に点前が似ていると感じる。神津氏は、利休、織部、遠州の点前は同じだったろうと考えていて、大名茶と千家の茶之違いはほとんどなかったと言及している。
 また、最もわかりやすい違いとしては腰につける袱紗の位置があるが、初期の点前では袱紗を腰につけず、懐か袂に入れていたため証拠はないとしながらも、上記の考えをなぞれば利休も右腰につけていたのではないか、とされている。左腰につけたのは少庵か宗旦と歴史書には書かれているが、千家の点前は全体的に大きな変化を遂げた。
 ちなみに、現代の点前についての研究をされた廣田吉崇氏の『お点前の研究 茶の湯44流派の比較と分析』を読むと、点前の近似性を図にされており、それを見ると、どれだけ現在の千家と遠州流の点前がかけ離れているかがわかる。
 なぜこれほどまでに利休の点前と変化したのかを知りたい。

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(引用 『お点前の研究 茶の湯44流派の比較と分析』廣田吉崇)


理想の点前

 点前の理想はどのようなものだろうか。厳かにする人、美しくする人、理想は様々である。
 私は師匠からこのように教わった。

「人間は自然の中の一個人である。そのため点前は記憶に残らない方が良い」

 茶を飲むために、自然を要素化し、茶室という限定的空間で再構築するとき、そこもまた自然を求む。そのため、点前をする者は、茶を飲むための必要な動きだけを行い、人工的な美や思想は不要というわけである。
 人は、絶えず移りゆく自然の流れを覚えていない。茶の湯もそのように行うのであれば、すべてが終わった後に、
「何か心地よかったな」
と客人に思ってもらえる点前や茶事が理想だと思う。もっと言えば、「茶の湯なんてどうでもいいや」と思われたら最高である。威厳があったな、美しかったな、と思われたら、私としては大失敗である。
 何度も同じ動きを繰り返す鍛錬を重ね、やがては自然化する。そこに点前の当たり前がある。

まとめ

 先述したように、多くの変遷は、当時の茶人の理想の現れとして重ねられてきた。400年分の削ぎ落としの後、現代に至って余分に付加された動きもあるかもしれない。
 最終的には、我々は一人の個人として、自分にとっての理想の点前を自然化できたら良いのではないか。そこに、正解も不正解もない。自分の身体の秩序を見出そう。

 ああ、点前を考えると、抹茶が飲みたくなる。一服、一服。

武井 宗道

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