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誰も、決して自分の土俵には上げない

私は自己嫌悪がとっても得意だ。ある日はまともに働けない自分に落ち込み、またある日はブサイクな自分にがっかりし、絵が上手に描けないといってはクサクサし、英会話でうまく話せなかったといっては意気消沈し、いつもいつも自己嫌悪している。

そして暇な私は、「もう、自己嫌悪ってなんなんだろう」と考えるようになった。

そもそもどうして自己嫌悪するのか。それは考えてみれば、自分より優れている誰かさんと自分を引き比べているから落ち込むのだ。

まともに働けない自分に自己嫌悪するのは、バリバリ働いている一般の人々や身近な誰かと比べているからだし、自分がブサイクだと落ち込むのも、若くて美人な女優さんやモデルさんと自分を比べているから。

ということはだ。スーパービジネスマンや若くて美人な女優さん、有名画家やネイティブスピーカー、そういう特別な人たちを見ては、勝手に彼らを自分の土俵に上げてしまっているということだ。

でも、棒高跳びで何メートルも跳べる人を見たからと言って、落ち込むだろうか?「わぁこの人はすごいな!」普通はそれで終わりだ。なぜか。そもそも比べる対象ではない、同じ土俵に登ろうと思っていないからだ。

だったら、到底かなわない誰かさんと同じ土俵に上がろうとしなければいい。それだけのことではないだろうか?ほんの一握りの特別な人と自分を同じ土俵に上げて一人で負けたと落ち込むなんて、ばかばかしくはないだろうか。

私は、自己嫌悪している自分に気づいたら、いったい誰と比べているのかを考えてみたいと思う。それが誰かに気づいたら、その人を思いきり土俵から蹴落としてしまおう(自分がそっと土俵を降りるほうが美しいだろうけれど)。

それが身近な誰かや境遇の似た誰かであっても、土俵から降ろす。それが過去の自分であった場合も。私にも、双極性障害になる前は「栄光」があった。「できていた」自分と同じ土俵に上がることはとても苦しい。でも、過去の自分はただの記憶に過ぎない。もうこの世に存在しないのだ。そんなものと一緒に土俵に上がる価値などない。

そうやって、比べる対象をどんどん土俵から降ろしていったら、土俵の上には自分しかいなくなる。土俵の上からただ一人、周りを見渡してみたら、きっとその景色は清々しいだろうな。たった一人土俵に立つ唯一無二の自分を、これから少しは愛おしく思えるかもしれない。


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