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承認欲求とSNSについて

書きたいことをうまく言語化できない。そもそも、考えているのか何か自分自身が生み出せるのかもわからない。ただ、出力してみる。

できなかったことはこれまでたくさんある。例えば、勉強、交友関係、恋愛、家族、仕事など思い返すとできなかったことがたくさんある。
勉強であれば、1年間努力し続けれなかったこと。
交友関係であれば、中学1年生の時話してみたかった子に話しかけれなかったこと。高校時代の多くの友人の連絡先を断ってしまったこと。
恋愛だと、自分がどの属性に当てはまるか考えれば考えるほど、現実から目を背けたくなったこと。
家族の問題から逃げ出したこと。家族の前でもう少し自分自身が大人で寛容な人間であればといつも思っている。

後悔はたくさんあると感じるし、これからもできなかったこととして蓄積され続けるかもしれない。

できたことを挙げてみようとするとできなかったことよりも考えることが難しい。

例えば、大学に進学したこと、ちょっとしたコンテストで賞をもらったこと、アルバイトの中で仕事の向き合い方について学べたこと。他人に認められなかったことに対して、諦められるようになったこと。

できたことを今思い返すと、自分自身の人生の喜びに直結しているのではないかと考える。ただ、自分は回りよりも人から認められたくて。それは、社会的に生きている人間である限り逃れることができないことだと考える。現代社会は、自分の価値観や、やりたいことで生きていける人が”善”とされて、”自分の軸をもって生きていこう”なんて叫ばれる。他人の価値観なんて気にするな、自分を認めようのような分かりやすい言葉だ。

そんな言葉にぶつけたくなる。そんな簡単にできたらみんなこんなに苦労しないのだ。

やっぱり、人間は、お金をもって社会に信用されたいし、結婚をして社会的に認められたいし、豊かな交友関係をもって羨望の目で見られたい。社会から仲間外れにされたくないのだ。

それは、何十万年も前から集団的人間という側面を持ちながら人繁栄してきた人類において社会の風潮や世論のみで変化させることは難しいと考える。

集団の中で生きること=なにか集団の中で役に立つこと=集団から認められること

現代社会では、個やアイデンティティが尊重され、一人一人の個性を主張していくことが良しとされている。
だけど、SNSに目を向けてみると、一つの正解のような”幸せ”ばかりがあふれている。(例えば、きれいな写真や交友関係を示す写真)

こんな感じで私はとりあえず、自分の価値観で生きていくことなんてできないし、友達のSNSは羨望のまなざしで見てしまうし、できれば友人から豊かな生活を送っていると思われるような視点、風景で写真をアップロードする。そもそも、SNSが発達する以前から、先ほども書いた通り、私たちには他人から承認されたいという生きるために必要な根源的な遺伝子が生みこまれている。

私は、結局は誰かの判断軸や社会の価値観に縛られて生きていると感じる。

だからこそ私は、自分の価値観やアイデンティティを貫いて生きている人を尊敬する。自分軸で生きていこうなんて簡単な言葉に憧れてしまう。尊敬している時点でもうそれは、自分の価値観を持って生きていないかもしれないが。
ただ、自分自身がどんなに社会の価値観に翻弄されて、それによって生きていたとしても、自分の価値観を心の中では守っていきたいと思う。






ってことで、承認欲求の塊なのでいいねが欲しいです。

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