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朝、つくる

 いつもなにかをつくるときは夜だった。でも、夜つくったものは見返すとどこか現実離れしているような気がする。いや、そういうにしては最近書いたNoteの文章を読み返したら案外いいぞとも思ったりするときもある。ここ3週間ぐらいに文章を書くことを始めた。始められたのが嬉しいのかもしれない。夜は溜まったものを我慢できなくなってどうしようもないから出していると思う。朝はどこか建設的なのかもしれない。今は考えている。だから断定したくない。

 これから庭師になるのか?そうはならない。抽象的なものが身体の中にある。それはすべての人間にあるんだと思う。実は全員ずれている。うまく社会のピースには嵌まっていない。そこから出ている瞬間だけが心地の良いときだ。抽象的なものがよく分からないというひとがいるがそれは確実にあり得ないと思う。自然の摂理に反している。今までの概念や世界をぶち壊して瞑想に陥ってちゃってる。抽象的なものこそ確かに形がある。触れるから安心する。確実なわかりやすいものって他人の家にいるぐらい落ち着かない。チェーン店のアルバイトぐらい落ち着かない。チェーンだけじゃないか。人として個として認めないような場所が多すぎる。

 会社とか学校とか他人ってなると「よくわからない」とか「それぞれ個人の価値観が違うよね。」っていう人がいると思う。大きく他者っていうけれど他者はそんなに分からない存在ではないと感じてるよ。だって形があるんだもん。3次元にあるんだもん。4次元になったり5次元になっている凄い人はごく少数いるけど、そこまで行けている人なんていないといっていいほどいないんだもん。分かりやすいってわけじゃないけど構造が他者に託されているから、ひどく言うと生きていない。何も身体にエンジンがついてなくてグライダーのように滑空して落ち続けている。

 ずっと進んでいくと最初に書いてあった文章の組み立てから今度は詩になっていく。組み立てるというよりは身体がホグレれて確かな形を持つような実は抽象的なようで芯にあるもの=骨組みが出てくる。ほんとは何もないんだってことがわかってくる。実は自由は、派手に飛び跳ねたりかっこいいポーズをとるようなことじゃない。真っ白なところでゆっくり、丁寧に身体の動きを感じながら動かすこと。だから心配や不安はあるけど大きなものじゃなくてその線からちょっと出て、動いてもいいんじゃない?

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