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フィクションで、リアルな、現実になる。

現実を観る

 自分の目から見えている世界って果たして事実なのか?今これを書いている部屋の中にある。椅子や机をじっと、じーーーーーと観ると面白い形をしていると思えてこない?自分が中学生の頃、授業中にぼぉーとしているとき、段々と世界が異世界のように見えてきた。そうすると、「この椅子の形はなんなんだ。」と思えてきたり、人間の顔や形が「きもちわるっ!なんだこの宇宙人!」っと異質なものに見えてくる。もしかしたらその感覚が現実を観るってことなんじゃないか?勉強の哲学(著・千葉雅也)で、現実には決して届かない、といっていたが現実が見えてしまっていたんじゃないか!興奮してきた。まあ、そういうことはないのだけれど、その感覚が現実に近づきたいという衝動の原点なんじゃないかと考える。真の面白い勉強はそこから始まる。


絵を観る

 絵を描いてみた。身体の中にたくさんのものが交錯して、暴れだしているので(今もそう)衝動に合わせて描いてみたのだが新しい気づきがあった。なんとなく書いていたのだけれど、全体を観てみると庭のようなものをつくりだそうとしている。現実にある植物にないような色合いで描いているのは、現実にない自分が作り出したい庭をどうにか出そうとしている。積み重ねが足りないのでそれは続ける。広く全体を観ると砂漠のオアシスにも観えてくる。自分のやりたいことは、多くの人の自由な場をつくりたい。社会から離れて別の空間に行く必要がある。開かれる必要がある。広がる。開かれた場をつくりたい。そこには植物が不可欠だと感じた。だから造園の勉強をしている。

植物を観る

 植物がなぜ、開かれた場所に不可欠なのかというと、植物は、人間にはない世界を生きているからだ。また、植物は超越した存在だ。植物は実は不死身なのだ。育つ環境さえ整っていれば死なずに元気に育つ。そう考えると人間もそうなのかもしれない。生きやすい環境、自分の身体に合った環境にいれば、元気に生きることができるし、死にたいなどの感情も芽生えない。植物は合わない環境にいるとすぐに死んでしまう。それはある意味では自死しているのだ。ほんとに植物はよくわかっているなぁと感服する。

開いてつくる

 美術の創作ってそういうことなのかもしれない。詩をつくることってそういうことなのかもしれない。まだまだ表面的な意味だけ浮いたものだし飛び出せてないけどまだまだ作る回数が少ないから、どんどん身体の中に含まれたものを出すことを楽しんでいきたい。じゃないと発狂するし、どうしようもなくなる。だったらつくり続ければいいし続けない理由はないよね。

創作物はフィクション。現実はフィクション。

絵の中にあるものは現実にあるところからきているものだし今はほとんど実際にあるものに近い。どんどん遠くにいって違う次元に移りたい。

創作物
建築、絵、文章、道路、テレビ、制度、概念、言葉、肉体、機械、学校、会社、ルール、友達、洋服、生き方、選択、動くなど、、)←ここ重要

創作物はフィクションだし現実だ。だから現実はフィクションだ。
だからそれ現実的じゃなくない?って言葉は言えなくなる。計画すれば時間はどれぐらいかかるかはわからないけどなんだってやれる。他者の創作物は排除して自分でつくってみよう。他者の概念やルールが染みついてるから、その前の自由だった子供の時を思い出して人他者のルールを分析して分解していこう!なんか視界がぼやけてきた。この世を作ることは簡単なんじゃないか?と、すきま風が吹いてきた。



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