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「自分だけの本当の言葉」を綴ることの難しさ

等身大の自分の言葉を綴ることの難しさを最近は感じている。

どうしたって、「見られていること」を、ほんの少しでも意識してしまうと、どんな風にわたしという人間を捉えてほしいかとか、これはわたしの立場的には言ったらダメだよなとか。そんないろんな should や shouldn't にがんじがらめになって、結局、綴る言葉たちはたくさんのベールや見えない誰かに対する気遣いや、自分の損得感情で包まれてしまって、そうして「わたしだけの言葉」じゃなくなってしまう。どこにでも転がっている、いい感じの、耳障りのいい言葉の羅列になってしまう。

表現を手段として、それを生業なりわいとして生きていくことの難しさを、なかなかに痛感して、もがいている。


例えば、これが本当にただの自己満足のためのエッセイや日記のようなものだったり。もしくは、創作としての執筆なのだとしたら。こんな葛藤や難しさを抱えることなく、どこまでも突き抜けて、言葉を取捨選択して形を整えたりすることなく、溢れでてくるままに書くことができたんだろうか?

書くことが好きだから。
書かないと、生きていけないから。

一時期、完全匿名かつ完全自己満足でブログを書いていた時期がある。
誰のためのものでもない、ありのままのわたしのための、わたしの中から溢れてきた生々しい、リアルな、わたしだけの言葉たち。

不思議と、そういう言葉を綴っているときは、更新が止まることもほとんどなければ、「今日はなにを書こう」なんて悩むこともほとんどなかった。そして、もっと不思議なのが、そういう自己満足のための自己中心的な文章を書いていたときの方が、フォロワーさんもたくさんいて、いいねもたくさんもらえていて。

え?
わたしの、わたしのための、わたし事の記事なのに、こんなにみんなに読んでくれるんですか?
誰得?わたし得です。みたいな記事なのに。
そんな記事の方が、みんな好きなの?

なんてことを思いながらも、そこではわたしはわたしだけのために書くって決めていたから、正直フォロワーの数にもいいねの数にもそこまで左右されることはなかった。もっとフォロワーさんを増やしたいとか、いいねを増やしたいからって理由で、書く内容を考えたり、整えたり、微調整することもなかった。

ただ、書きたいから。
ただ、この胸の中から溢れる言葉たちを、記録として、どこかに置いておきたいから。

ただ、それだけだった。
そのために、一体、何万文字を書き綴ったんだろう。
そして案外、そういう自分のための文章の方が、誰かの役に立っていたりしていたのかもしれない。実際のところは、知らないけれど。


昨日の記事で、

仕事にするために、お金を稼ぐために、言葉を綴るんじゃなくて。サービスを買ってもらって売り上げをたてるっていう目的達成の手段として、言葉を道具として使うんじゃなくて。

ただ、自分の中から溢れだしてくるから、自然と気づいたらやってしまうような。そんなことの繰り返しが、気づいたら誰かの役に立っていて、そして気づいたら仕事になっていた。そんな流れが、理想だなって思う。

なんてことを書いた。


その言葉に、嘘はない。
それでもやっぱり、提供できるものは実際にわたしの中にはあって。それを提供することで、対価としてお金をいただいて、そのお金がまわりまわって自分や子どもや家族の生活を支えていくのも事実で。

だから、やっぱり、「売る」ってこともきっと大切で。
その「売る」って行為に対して、どこかいつも及び腰で。そんな状態だから、寝ても覚めても「仕事」について考え続けているっていうのも、わかっているんだ。

どうして、言葉を使って「売る」っていう行為に対して、こんなにも及び腰になってしまうんだろう。売ることが怖いわけじゃない。サービスに対しての迷いや自信のなさではない。ただ…

そんなことのために言葉を綴るのは、言葉に対する冒涜だと、どこかで思っているのかもしれない。

…馬鹿だなあ。だったら、小説家にでも、なればいいのに。
でも、多分、それもなんか違うんだ。なにが違うのかなんて、よくわからないけど。

「書く」という目的のために「書く」という行為をおこなうことが、自分には如何せんしんどいというか、なんだか納得ができないというか。なんなんだろう。書くという行為に対してわたしが抱いているこの潔癖は。

結局のところ、未だにわたしはビジネス性とアーティスト性のバランスについて悩んでいて。葛藤しているんだろう。そして、おそらく、ビジネス性とアーティスト性を統合していくことが、今のわたしの向き合いたいと思っている課題なんだ。多分。


そんなに悩むなら。
いっそ、表現者としての自分を、お金や仕事とは切り離して趣味にしてしまった方がいいじゃないの?なんて議論を、アーティストの友達と何度も繰り返してきた。

こうして文章を書くということ、表現するということを、生活に直結させるお金とは完全に切り離して。生活に直結するお金は、アルバイトや仕事をしたりして稼ぐ。そうしたら、表現という行為は、仕事という足枷から自由になる。

そう。それが賢い選択なのかもしれない。
それをやってみようとしたときもあった。
でもさ。なんか、ダメなんだよ。
なんで?なんて聞かれてもわからない。
第三者から見たら、ただの覚悟の問題、甘えなのかもしれないけれど。

わたしにとってみたら、「時間」の問題だ。
表現としての言葉が溢れでてくるタイミングなんて、時間を決めてスイッチをONにしたら勝手にやってくるものなんかじゃない。少なくとも、わたしにとっては。

そして、仕事という日常を過ごしていくと、心はだんだん枯渇していって、心のコップは溢れるどころか枯井戸に成り果てる。そしたら、わたしは書けなくなる。そしたら、わたしは、どうやって生きていったらいいんだろう?

なんてことを言うと、「お前は極端だよ」とか「悲観的すぎかつドラマチックに物事を捉えすぎ」なんて言われるので、やっぱりこの感覚はなかなか理解はしてもらえない。もしかしたら、本当にただのわたしの思い込みというか、考えすぎなのかもしれない。そんなに難しく考えなくてもいいのかもしれない。もっと、シンプルに。フラットに。言葉と向き合っていけばいいのかもしれない。

でも…

そんな無限ループを、ここ数ヶ月、脳内で延々と繰り返している。
こういうことを、こんな場所で書くのも、まあまあ勇気のいることだったりする。表現すること自体は、別に怖くはないんだけれど。書く手だって、さっきから一切止まっていない。もはや、この言葉たちにわたしの思考はほとんど介入していない。ただ、頭の中で溢れでてくる、メロディのような音の羅列を、咀嚼する暇もなく、指先がキーボードの上を舞い散らかして、そうして言葉が綴られていく。「わたし」は、ただその光景を観客宛らに眺めてる。

自己満足、だよな。どこまでいっても。
それでも。やっぱり、言葉の力を信じたいと思うし、自分が納得できる表現を続けることと、それを生業なりわいとすることは、両立すると思うんだよ。そう、信じたいよ。その延長線上で、わたしが世界に与えられる価値(を分かりやすくサービスとして体系化したもの)を提供していくことも。

ビジネス性とアーティスト性の両立と和合。それはきっと、わたしの中の男性性と女性性の両立と和合でもある。

その可能性を、信じたいと思う。
やり方なんてわからないけれど。
他の人がやっている方法を見ても、その真似なんてわたしにはやっぱりできなくて。
真似をしようとしたら、言葉たちは一気にわたしから背を背ける。「わたし色」がどんどん抜けていって。そう、まるで、指の間から砂がこぼれ落ちるように。そんな光景は、見たくないや。

だから、もがこう。
大好きな坂田銀時が言ったように。
「美しく最後を飾る暇があるなら、最後まで美しく生きようじゃねーか」
そんな風に。

それがきっと、わたしにしかない、他の誰にも奪えない、模倣も真似もできない、「わたしらしさ」だから。


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