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身体感覚から考える幸福感 ~散歩に行こう~

春だ。散歩をしよう。

脳内がとっちらかっているおかげで服薬を忘れがちな私だが、今年は花粉症の薬を割と継続して飲んでいる。おかげで、例年ほどひどい鼻水に悩まされてはいない。文章はとっちらかっているが(笑)。

大学は春休みだ。というか、今年は大学卒業&大学院進学の年なのである。休みにすること/すべきこと、はいろいろあるかもしれないが、自由な時間にすべきことはなんだろうか。そんなとき、案外といいものを見つけた。散歩だ。

さて、内省的な思考を深めていく場合、結局のところ幸せとは何か、というクエスチョンになってくる。これにはいろいろな側面から多種多様な回答がなされてきたが、今回は身体感覚にしぼって考えてみたい。

多くの人が自分の幸せを求めている。その中で、「これをすることが自分の幸せ」とか、「こういう自分であることが自分の幸せ」といった定義を考える。

例えば、「ゲームをしているのが幸せ」な人もいれば、「仕事をバリバリこなしているデキる自分であることが幸せ」だという人もいるだろう。

でも意外と幸せでないと感じる、そんなことはないだろうか。日本人の幸福度が低いというニュースも時折目にする。好きなことをしているのに、理想の自分を目指しているのに、なぜか物足りない。何なら辛い。金を持っていても、楽をしていても。

日々のストレスかもしれない。休日、好きなことを好きなだけできるはず。なのになぜか、虚しさがある。身体が動かない。結局、家で寝続けて過ごしてしまうことも。。。とか。

こういう時、身体感覚が問題だ。自分の身体は何を訴えかけているのだろうか。なんか頭が重たい、身体がだるい、身体の一部が、冷えている、または熱を持っている。どこかが痛い。苦しい。

こういったネガティブな身体感覚が不満足、ひいては不幸をもたらす。これは少し言い過ぎと言われるかもしれない。確かに、たいていの場合、好ましくない出来事が身に降りかかってくることによって不幸な感情になるだろう。外部要因によって不幸が作られるという主張は論理的だ。

だが、不幸を感じているとき、必ず人間の身体感覚はネガティブになっている。究極的に満ち足りた身体感覚があれば、それは不幸ではない。だから、身体感覚の方が不幸を作っているともいえるのだ。というか、少々の外的要因によって、落ち込まされる身体感覚。そのような身体が元凶ともいえはしないか。

ここで思い出してみるのは、子供時代だ。小学校の中学年くらいまでを想起する。元気に外遊びをしていた自分がよみがえってくるのではないか。あの頃の自分にはエネルギーがあった。短い休み時間に、少しでも長く校庭で遊び、放課後は公園に集まって日が暮れるまで遊んだあの日々。

あの時は、何でもないことが楽しく、幸せだった。充実感に満ちていた。あのフレッシュな感覚。緑がより緑だったヴィヴィッドな感覚。あれは、好きなことを探し、見つけ、定義して、それをすることによって幸せになろうとする、そんなものではなかったはずだ。より直感的な、明瞭な感覚が幸せをもたらしていたのではないか。

結局、幸せとは、エネルギーに満ちた身体感覚を認知しているときに宿るもの。これが私にとって最新の幸せの定義だ。

エネルギーの感覚は小学生の頃の自分のような身体感覚だ。もちろん、それより成長しているのだから、より穏やかでもよい。穏やかな充実感、このまま極上の昼寝ができそうな。ただ、どこかが苦しかったり、不満が脳内をかすめるような状況ではまだまだだ。リラックスすること、日光に当たって。

だから、散歩に出かけたら、自然を探そう。公園がいい、少しい広めの。できれば池のあるような。

穏やかな太陽、そのエネルギーは確かに身体感覚を改善する。しかも無料だ。サウナで整うというサ活がブームだが、日光はサウナより整う、と個人的には感じる。自然のエネルギーは、やはり本能的だ。

公園、特に水辺があって日当たりのいい公園、ベンチに座って、頭の中は、空っぽ。ただ今この一瞬に感じていることを意識にあげていく(マインドフルネス的?)。五感を総動員してみる。

視覚。目をつぶっていても、まぶしさは感じる。目を開けば、木々と水面が見える。
聴覚。子供の遊ぶ声、水の音、鳥の羽音。
触覚。顔に当たる風を感じる。ベンチの座り心地はどうか。日光が暖かい。
嗅覚。土のにおい、草や木々のにおい。
味覚。何もないかもしれない。でも何もないを味わってみる。とか。

これを1時間もやれば身体は整ってくる。

このときの感覚が私にとっての幸せだ。そしてもしかしたら、いやほぼ間違いなく、多くの人にとってそうなのだろうと思っている。

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