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なぜ、京都の太秦(うずまさ)が日本のハリウッドなのか!故郷を振り返る!

京都市右京区は京都で最も広い面積の区である。

嵐山や嵯峨野といった風光明媚な景勝地、龍安寺、大覚寺、天龍寺などの世界的に有名な庭園のある寺社、全国900箇所にも及ぶ愛宕神社の総本山、を有する京都らしいまちなのだ。

僕はこの右京区に属する、日本のハリウッド、太秦という場所で育った。

太秦は“うずまさ”と読み、ここには東映、大映、松竹など、日本の映画会社の撮影所が集まっていた場所である。娯楽の中心が映画であった40年代から、60年代の初頭にかけて、この街から多くの映画が撮影され公開されていた。

僕が生まれたのは、64年なので、日本の映画産業はすでに斜陽産業となり、時代はテレビに移行をしていたが、街はまだ映画の街らしさを残していたのだった。

映画の街の住人たち

幼稚園まで住んでいた家の近所には、若き東映映画俳優の里見浩太朗さんが住んでいた。彼には、僕と歳の近い息子がいて、その子とよく遊んでいた記憶がある。東映は、映画からテレビドラマにも進出し、のちに里見氏は水戸黄門で助さん役で大ブレイクされた。

日本のユニバーサルスタジオの原型は、U S Jではなく、東映太秦映画村だと思っている。今は入場料金を払えば、東映スタジオに入ることはできるレジャー施設である。

しかし、映画村になる以前は多くのスタジオがならぶだけの作業場であった。幼い僕は、時々敷地に裏口から勝手に侵入して、遊んでいた記憶がある。

撮影の合間に、侍の格好をしたおじさんたちがキャッチボールをしており、幼い僕はその仲間に入れてもらっていた(単に相手をしてもらっていたのだが)そのおじさんの一人は初代遠山の金さんの中村梅之助さん(中村梅雀のお父さん)だった。

小学校に進むと、クラスの中には、お父さんが大部屋付の俳優さんや、大道具さん、照明さん、なんて人たちもいた。家に遊びにいくと、仮面の忍者赤影の悪役、ガマ法師がお父さんだった!なんて体験もある。因みに、ガマ法師は優しいおじさんだった!

近くに、大映通り商店街という場所があり、父親に連れられて行く喫茶店には、侍がタバコを吸いながらコーヒーを飲んでいた。

ちなみに、この商店街も映画の撮影にはよく使われており、仁義なき戦いや蒲田行進曲は広島や東京が舞台だが、撮影の多くは太秦でされていた。どちらも深作欣二監督ですね。

時代は映画からがテレビへ、そしてスマホへ変化した

映画の街だったこの地も、テレビの時代となり、日本映画の斜陽化とともに映画制作会社の路線変更や、破綻をして、撮影現場も縮小されていった。

僕が通っていた中学校は新設校だったが、破綻した大映の撮影所の跡地に建てたれた。隣には、売却されていない撮影所が残っていた記憶がある。

中学卒業のタイミングで、我が家は父の故郷の広島に引っ越した。その後、何回か、当時を懐かしんでこの街を歩いてみた。

いまだに撮影所は所々残っているものの、エンタメの発信地の中心としての輝きは感じることはなかったと思う。

時代は映画からテレビへ、そしてデジタル技術で
スマホへと移り変わり、エンタメの質も変化をしてきた。今は、掌のスマホで撮影も編集も簡単にできる。

大掛かりな撮影機材や編集機材も必要なくなったし、スタジオやセットがなくてもデジタルで臨場感のある現場を作り出すこともできる。

銀幕のスターでなくとも、ごく普通の人や、犬や猫までも人気のユーチューバーになる時代。故郷に戻ることも、もちろんあの時代に戻ることもできない。

でも、昔を懐かしみながらも、誰もが手の中に収まるスタジオで、発信できる術を手に入れた。どうやら年齢も関係ないようだ。

思い出は大切にしながら、まだまだ人生を楽しみたいとおもうのである!


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