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パーマカルチャーと自然農の誕生


<世界観の違い>パーマカルチャーと自然農の誕生
パーマカルチャーでは食べられる森やフォレストガーデンのことを「発達した森」と呼ぶ。しかし、自然農を実践する人たちは同じ森のことを「若い森」と呼ぶ。これは決して勘違いや考え方の違いではない。この違いこそ、育った環境の自然遷移の違いである。

ビル・モリソンはオーストラリアで行われていた大規模面積で行われていた肥料や農薬を使用した単一作物栽培によって、畑が疲弊していき塩害被害や地下水枯渇など作物が育たなくなるばかりか、周辺住民や野生動物への悪影響などを目の当たりにし、効率的で最先端と謳われていた栽培法に疑問を感じた。ビル・モリソンが見た景色は荒地であり、砂漠のように不毛な大地だった。

タスマニアの豊かな海で漁師としての経験があったビル・モリソンはモノカルチャー農業のように生態系を破壊して作物を得るのではなく、生態系を破壊することなく人も動植物もすべてが共存できる仕組みの発見を目指し、「世界中を食べられる森に変える」ことを目指したのだった。

パーマカルチャーの思想の始まりは砂漠のような荒地を生物多様性の豊かな森林に変えていくこと、つまり自然遷移を加速させる必要があった。自然のままに任せるのではなく、人間の手で加速させる必要があると考えたのは、西洋の伝統的な自然観は無関係ではない。

オーストラリア大陸やヨーロッパ大陸のように古い大陸では長い年月の雨風による風化によって、ミネラル分が消失してしまい、植生は乏しくなっている。特にヨーロッパでは最終氷期のなかで、3000Mもの厚さとなった氷河が地表の土壌を削り取ってしまったがために、間氷期に入って人類が進出しても農業は難しかった。縄文時代以前から豊かな森林が広がっていた日本に対して、西アジアやヨーロッパでは広大な草原しかなかったことが分かっている。そのため、農業は作物の栽培のためではなく家畜の餌を確保するためにイネ科植物などを育てることからはじまった。

西洋の歴史とは、人間にとって住みやすくない土地や環境を人間の手で開拓して、住めるようにした「開拓の歴史」でもある。最終氷期真っ只中にヨーロッパへと渡った人類は草原で狩猟し、激減しまったところで家畜を始め、それを養うために農業を始めた。

また夏に雨が少ないこれらの地域では作物を栽培するために、水を遠くからひく灌漑設備はセットだった。日本は田んぼのために水路をひくが、西洋では畑のためにひく。土の肥沃さを増すために牧草と家畜の糞による三圃式の有機栽培が生まれるのは必然だった。灌漑設備農業と有機栽培は西洋の自然だからこそ、誕生した。自然遷移を加速しなければならないのは生態系のレジリエンスに制限があるからだ。

西洋は土地の貧弱さから、文明を発達させるためには肥沃な植民地経営と奴隷文化が必須だった。西洋ではバレエが何度もジャンプするように、この大地から離れようとする。大地の制限から逃れようとして積極的に働きかける。それが行き過ぎた開発につながる。

この水の少なさゆえに、西洋の植物の復元力は弱く、人間の過度な森林破壊は文明を終わらせるほどの被害をもたらす。森林伐採や大規模な焼畑を行えば元の植生に戻るまで数百年から千年ほどの月日が必要になる。その証拠が中国、インド、中近東の砂漠で、これらは人間が作ったと言われている。

西洋の映画を見ていると、文明が崩壊するとそこには不毛の大地が殺伐と広がるシーンが必ず出てくる。文明が崩壊すればそこには盗人や悪党が住み着くくらいで、生物多様性はなくなる。ピラミッドの周りがいまだに砂漠で、内部の品々が西洋のコレクターたちに収集されたように。

それに対して、ジブリ作品のように日本の映画では都市の文明が終焉を迎えると、数年もすればそれを覆い隠してしまうかのように草木が茂り、文明もまた土へと還っていき、数十年で森林に戻る。『風の谷のナウシカ』に出てくる腐海のように人間が容易に入れなくなるほど、生物多様性の宝庫となる。そこにはまるで文明がなかったかのように。漫画版の『風の谷のナウシカ』には腐海の森と正反対の砂漠の国が出てくるが、この対比は東洋と西洋の対比に違いない。

ビル・モリソンが影響を受けた『東アジア四千年の永続農業』では、農学者F・H・キングがアメリカ・ミシシッピー川流域の農地がモノカルチャー栽培の影響で土壌浸食が激しく、生産力を失っていく様子を目の当たりにし、さらにリン鉱石など大量の鉱物資源を肥料として農地に投入し続けることの問題から限界を感じていた話が載っている。

こうして、西洋の自然観は「足す思想」が強くなった。自然から搾取しなくては生きていけない人間にとって子孫繁栄することは自然遷移を後退させることになる。だから、それを補うために人間は足し続けなくてはいけない。そんな西洋の自然観では食べられる森は発達した森であり、人類の希望の象徴となる。

キングは日本、韓国、中国の里山を見て回り人口密度がアメリカ本土よりも多いにも関わらず、4000年以上に渡って受け継がれてきた集約的な循環型農業について調査した。東アジアの例を参考に、今後人口が増えるであろうアメリカ国民の食料を永続的に確保したいという願いがあった。

この三つの国には世界でも稀な豊かな自然が広がる。それを生み出しているのが夏に雨が多いことで、梅雨・台風・夕立である。日本では森林を皆伐したとしても20~30年も放っておくと勝手に森林ができあがってしまう。このレジリエンスのおかげで、日本では自然遷移を加速させる必要はなく、過度にすれば土のステージを合わなくなってしまう。「過ぎたるは及ばざるがごとし」。だから、どんな栽培方法でも土のステージが違えば虫害や病気になってしまう。日本で畑をやるなら、パーマカルチャーをするならこの自然遷移の特異性を軸に考えていないとうまくいかなくなる。

これほどのレジリエンスを持つ植生生態系は世界の温帯地域ではこの三ヶ国しかなく、この国こそ一年中しかも多種多様な作物が自然農で栽培できる国である。つまり自然農は東洋稀な大地だからこそ誕生したのだ。一般的に火山噴火によって生まれる新しい大陸はその豊富なミネラル分のおかげで植生は豊かになるように、日本はもっとも自然農に適している。

そのため日本の歴史といえば「開墾の歴史」である。豊かになりすぎてしまった極相林を里山つまり田畑に変えること。そして、人間が管理していない土地こそが荒地で、それは西洋のように砂漠のイメージとは違い、草木がジャングル化しているところを意味している。西洋人は草がぼうぼうの庭を「素晴らしい」と称えるが、それを見た日本人が冗談で「うちの庭と同じです」と言っても通じない。

日本に代表される東洋思想は「引き算の思想」が強く、中庸(バランス)を維持することを尊ぶのは、このためだ。「無駄がなければ不足はない」「機能美」「蛇足」などシンプルさや節度が美徳につながり、日本の能ではすり足でゆっくり動き、日本舞踏では膝を軽く曲げ、大地から離れようとしない。

『天空の城ラピュタ』では大地の制限から逃れることが人類の希望である人々と、土から離れて生きていけない人間の性質のせめぎあい。
『もののけ姫』ではもっと多く開墾したい人々と、その思惑をすべて飲み込んで大地に還そうとする自然遷移のせめぎあい。
こうしてジブリの作品を見てみると、西洋と東洋の自然観が垣間見えて面白い。

西洋の足す思想と東洋の足す思想は至る所で見られる。
カタツムリの作物被害への対応手段を尋ねられたとき、ビル・モリソンは「カタツムリが多いのが問題ではなく、アヒルが足りないことが問題だ」と答えたというが、自然農の職人たちはおそらく「水はけが悪い(水が多い)のが問題だから、土中内の水と空気が流れるようにしたらよい」と答える。

西洋の世界観では問題に対して「何が足りないか」「何を足せばよいか」という思考になりやすい。東洋の世界観では「何が余計なのか」「何を減らせばよいか」という思考を持つのだ。

西洋の人々は数を数えるときに握りこぶしから始めて、指をひとつずつ伸ばしていく。東洋の人々は逆に指を広げた状態から一つずつ追っていく。西洋はゼロから足していくのに対して、東洋は5から一つずつ減らしていく。西洋は買い物のお釣りの計算を足していくのに対して、東洋は引いていく。キリスト教の愛の教えは「自分がして欲しいことを、他人にもしなさい。」だが、東洋思想(儒教)の愛(仁)の教えは「自分がして欲しくないことは、他人にもしない。」

西洋では開発してしまうと失われていく豊かな森林を目の当たりにして、自然保護運動が活発した。つまり自然保護とは裏返せば自然破壊の歴史があったから生まれたものであり、レジリエンスが弱い地域だからこそ叫ばれるのである。逆に東洋ではそのレジリエンスの強さから自然保護の思想は実感がわかない。毎年農薬をかけても雑草は生えてくるし、森林を破壊しても気がつけば森林に戻っているからだ。

西洋では最近「再野生化(リワイルディング)」という言葉が論じられるようになった。
「ヒトは一歩引いて自然のなすがままに任せる。特定の種に注目せず、事前の目標設定もほとんどしない。再野生化の支持者たちはむしろ成長の余地を与えさえすれば、自然は私たち抜きでも繁栄すると考える。再野生化は比較的新しい概念で、賛否両論あるものの、・・・(中略)・・・時にはただ見守り、あえて他人と違うことをするだけで、もっと明るく、恵み多く、生物多様性豊かな未来を作り出す助けになる。」(『LIFE CHANGING』より)

たとえ、西洋であっても決して自然遷移が進まないわけではない。長い歴史のなかで開拓など「人間が手を入れないといけない」という思い込みがあったから、そう思っているだけだ。再野生化は東洋からすれば、ずっとすぐ側で起きていた事実であり、別に新しいわけでもない。しかし、西洋からすれば自然観のパラダイムシフトそのものだろう。

ただし、問題がないわけでもない。それは西洋の大地の制限ゆえに、その自然遷移のスピードは現代人が慣れているスピードからしたら、桁外れに遅いということだ。そして、人間からあまりにも離れた植生遷移は必ずしも人間にとって都合が良いわけではない。そのため、ここまで膨れあがった人類を養うことが可能かどうかは、正直のところ分からない。


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