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味をしめた舌と記憶


<観察の極意と感性> 味をしめた舌と記憶

今年も雑草を堪能しながら畑仕事をしている。
仕事の合間のひと休憩のたびに足元に生えている雑草を口に運ぶ。
自然農の畑には食べられる雑草がたくさんある。
だからこの時期は、毎日のように食卓には雑草料理が並ぶし、空いている時間を利用して野草で作るお茶や医薬品など作ることが多い。

あなたは雑草の味が変わっていくことに気がついているだろうか?
雑草は季節が進むにつれて味を変えていく。
それもそのはずで雑草からすれば人間にも虫にも食べ尽くされてしまっては困るから、
食べるたびに、虫が多くなる夏に近づくにつれて苦みやえぐみが増えていく。

また場所によって味も違う。
雑草といっても細かい品種で見れば、さまざまだ。
たとえば和ハーブの女王ヨモギは全国で約35種類、世界では三百五十種以上とも言われている。
その品種によって味は様々だ。沖縄のフーチーバー(ニシヨモギ)は独特の甘さと香りの濃厚さでやみつきになる。
もちろん品種によって効能も少しずつ違ってくる。

伝統的な東洋の医学といえば、本草学だ。
日本では古代から中国の本草学を取り入れてきた。一部は漢方として残っているが、日本流の漢方である和漢方や民間療法の薬草として受け継がれている。
その本草学ももともとは薬草の効き目が実際に身体に現れる効果で決めていた。
現代西洋医学と違って、伝統的な東洋の本草学は主観性が強い。
誰でもいって効果を得ることができるのが現代西洋医学は徹底的に客観性を求めてきた。
しかし、伝統的本草学はその人だけが特に効能を感じられるように薬草などを調合する習慣がある。
だから、医者も患者も自分自身の体を観察する必要があったし、観察のうまい医者は良い医者だった。

生えている土質によっても味が違う。
もしその土地に肥料や堆肥が使われていれば、それでも味が変わることに気がつくだろう。
私のワークショップではよく雑草で味比べをすることがある。参加者の誰もがその味の違いに気がつくほどだ。
土が野菜を育てるのだから、土の味が野菜の味になるのは迷信や気持ちの問題ではない。
大切なことはどの肥料が良いとか悪いとかではなく、自分が美味しいと思う味のする野菜を作ることなのだ。
自然農の野菜ばかり食べていると舌が肥えてきて、どんな肥料で育てたのか分かると言う人もいるくらいだ。

さらに気候によっても味が違う。
私が自身の舌で確かめてきた結果では暖かい地域に行けば行くほど、甘みと苦味が強くなっていく。
これはおそらく光合成の問題と虫の多さの問題であろう。
こうして育つ環境に応じてその通りに育つ植物はとても素直だと、いつも思う。
それに野菜にしろ雑草にしろ果物にしろ、イキイキとしていているときが一番美味しい。

自然農(無農薬無肥料)で育てた野菜を、慣行栽培の農家さんに食べてもらうことがある。
無農薬無肥料の野菜に興味津々のおじさまおばさまたちだ。
彼らが食べて言うことは誰でも一緒だ。「幼い頃に食べた野菜の味がする」と。
彼らが幼い頃は化成肥料はとても高価なものだったので、手に入らない。
だから、緑肥や自家製の雑草堆肥で野菜を育てていたから味が似ているどころかほとんど同じだろう。
もちろんタネの品種も現代のF1種ではない、昔からある在来種や固定種なのも関係している。

昔から日本人は味覚を大事にしてきた。
利き茶からはじまり利き酒など、味の違いを見極める芸は江戸時代以前から流行っていた。
魚の呼び方が成長度合いによって違う、いわゆる出世魚は日本独自の文化なのだが、これはまさに成長に応じて味が変わるからだ。
日本人は味の違いで名前を呼び分けていたという話にはまさに舌を巻く。

ヨーロッパの科学者たちが「人間が感じる味覚は甘さ、塩辛さ、苦さ、酸っぱさの4種類である」という説を唱えたとき、日本の科学者たちは「それでは足りない。うま味がない」と異議を唱えたという。日本人の色で重要な出汁のうま味はヨーロッパにはない味覚だった。それは微細な味覚だが、それが和食の多様性を生み出していた。

味の好みつまり主観性を大切にしていたからこそ食の多様性も生まれたのだろう。
全国にさまざま品種のタネがあったことや加工品である味噌やしょうゆなどにも多様性が残っている理由は決して地域性だけで説明できることではないと思う。
いまだに地元の味噌や酒に拘りと誇りを持つ人がいるのは舌があなたを離さないからだ。

舌で感じる味覚は記憶と深く結びついている。その記憶には忘れがたい感情も付随している。
誰しもがおふくろの味と幼い頃の幸せを覚えているように。
その味を思い出して自然農にチャレンジする人たちも多い。あの頃に味わった野菜をもう一度とばかりに。

私が自然農をしている理由はたったの二つだ。
ひとつは一番「面白い」と思うから。
そしてもう一つは一番「美味しい」と思うからだ。
そう結局のところ完全な主観である。
人によって面白さも味も好みがある。だから、慣行栽培の野菜が美味しいと思う人は慣行栽培をして、有機栽培が美味しいと思うなら有機栽培をしたらいいと思う。

自分自身の身体を作っていく、命を育むものを私たちは育てていることを忘れてはいけない。
「本当に美味しいと感じるものを育てたい」というのが一番持続可能な動機である。
自然農は始める理由よりも、続ける理由の方が何倍も大切だ。自然に優しくとかエコな暮らしとか、そんなのは二の次で良いと思う。
それがいちばんの理由だと苦しくて続かない。なぜなら収穫の喜びが生まれないからだ。タネを蒔く希望感も生まれない。

乳児はすでに嗅覚と味覚の刺激に対して強く反応することは育児をした人なら誰でも心当たりがあるだろう。乳児があらゆるものを口の中に運んでいるのはそれを味覚で認識するためでもある。
味覚は人生を表現する。「味気ない」とか「辛酸をなめる」とか。甘い言葉に苦言など。
人間の身体の構造のせいで、呼吸器と食道がすぐ近くにあるためなのかもしれない。味は生きることと非常に近いのだ。
「口の中に入れても痛くない」というのは物理的には嘘だが、心理的には共感できるのは味覚はコミュニケーションにおいて重要な近さの感覚でもあるからだろう。(もちろん嗅覚も)
私たちが会食によって交流し、信頼関係を育もうとするのは同じ味覚を共有することが同じ空気を吸うことと同義だからだ。(もちろん嗅覚も)

日本人は複雑な味を好む。甘辛いとか甘じょっぱいという味は他国にはなかなかないし、出汁や隠し味にこだわるのも和食の特徴である。味覚で客人を楽しませることはおもてなしの一つだった。もちろんそれは自分自身や家族の絆を育むもので、いつの時代も「おふくろの味」や「馴染みの味」はアイデンティティのひとつである。

趣味とは言葉の通り、味わうことに始まる。私たちは味を覚えてしまう。現代科学で明らかになっているように私たちが味というとき、純粋に味覚だけとは限らない。華やかな料理が視覚を喜ばし、香ばしい匂いが嗅覚を刺激し、場の雰囲気が気持ちを整える。足でつまみ口の中に入れる食感(舌触り)もまた味わうことだ。こうして私たちは五感を通じて味をしめるのだ。

私は毎年毎年、春になると「畝立てがめんどくさいな」とか「種まき大変だな」とか思うのだが、あの味を想像してしまうとついつい暖かい布団から出てしまう。畑に出れば清らかな空気が身をまとい、私の動きに合わせて、畑の音楽隊が奏で始める。気がつけば数時間もあっという間に過ごしてしまうことになる。
つまり私は自然農に五感が完全に虜になってしまっている。


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