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宗教は矛盾だらけ?実は本質的には矛盾しない秘められた理由 仏教・神道・キリスト教

宗教はお互いに矛盾だらけ、と言われることがあります。そのため、「宗教はうさん臭い」とか、「どこまで信じていいのかわからない」、という方が少なくありません。

そこで、仏教、神道、キリスト教を信じる筆者が、この3つの宗教の教え(仏教、神道、キリスト教)は本質的な部分では矛盾しないこと、そしてそのすべてが矛盾せずに補完する形で成立する秘められた理由を、独自の理解で見出しており、その理由を書かせていただきます。※イスラム教やヒンズー教については、詳しくないので割愛します。

なお、これから書く内容は、きわめて私の個人的な意見を交えていますので、一般的に私の意見が必ずしも認められているわけではないことをご了承いただけましたら幸いです。(※私の意見は絶対的な正しいものとして主張するのではなく、私のなかでの一つの解釈です。そのため、そういう意見があるんだ~的に理解していただけましたら幸いです)


神は唯一か?多数か?一神教と多神教の矛盾に迫る ~ 宗教の矛盾①

神という存在は果たして唯一か?多数か?・・・宗教によって一神教と多神教で矛盾が生じていることで、しばしば論争になることがあります。

しかし、一神教と多神教は何一つ矛盾せずに成立します。そこには、一神教と多神教で神という言葉の定義に違いがあるからややこしいのです。

🔴 キリスト教

神=創造主

聖人=生きているときに奇跡を起こし、死後、天国に入ることで奇跡を起こすことがあります。なお、個人的には、キリスト教の聖人と仏教の菩薩は似たような存在であると思っています。天上界に住まわれて霊的レベルが優れているので、奇跡的に人を助けるサイキック能力が使えるということです。

また、日本語の『神』という言葉は古来より神道の神様を意味しています。本来はキリスト教の教える創造主そのものを表す言葉ではありません。

16世紀にキリスト教が日本に入ってきた時、イエス・キリストの教える「GOD」は「デウス」「天主」などと呼ばれ、神道の神とは別のものとされました。これが、本来日本語としてGODから訳されるにふさわしい名前です。

しかし、明治時代に入って「GOD」は「神」と訳されたのです。

そのため、キリスト教の人が「神は唯一です」という場合は「創造主が唯一です」と言っているに等しいのですが、論争になると、キリスト教の人と、それ以外の人とで神の定義が違うので、余計にややこしくなります。

🔴 仏教

大日如来=創造主(密教)
如来(仏)・・・真理の世界から来た神のような存在(悟りを開いている)
菩薩・・・悟りを求めている求道者。人のために尽くすありがたい存在
明王・・・ヒンズー教の神々(神様の存在は全否定していないようです)
天・・・天上界に住まわれる霊的存在 梵天・帝釈天など

仏教には阿弥陀如来様、十一面観音様、千手観音様など、人間の悟りをはるかに超えて、実際の御働きは神様としか思えない、ありがたい霊的存在が多数いらっしゃるので、如来や菩薩にも、仏であって実体は神様のような存在は多数いらっしゃると個人的に思っています。

🔴 神道

神=人間より上位の霊的存在で、人間や自然を守護される数多くの存在。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)=創造主

※定説では天之御中主様が創造主とされていますが、霊的解明によって天之御中主様より上位の神様が存在する情報が複数存在し、個人的にはそれを支持します。くわしくは、いつか記事にします。

造化三神=天之御中主神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ) 神道の神でトップクラスを司る上位の神々様。

天照大御神=太陽神であり日本国の守護神

八百万の神=森羅万象に宿られる神々様。太陽のような巨大な恒星から米粒に至るまで、様々な種類の神が宿ると言われています。八百万とは、多数という意味です。

また、神道の神様は数が多いだけでなく個性をお持ちです。

神道の神様は、上位の神々様からお生まれになられたことは日本書記、古事記を観ればわかる話です。そのため、大元をたどれば創造主的な存在から数多くの神々がお生まれになられたことがわかります。

要はこの宇宙には「唯一の創造主」がおられ、神々様や仏様はそこからお生まれにならた解釈で、何一つ矛盾なく辻褄が合うのです。


教祖の教えと教団の教えは必ずしも一致していないことがある ~ 宗教の矛盾②

まず、異なる宗教同士が互いに矛盾することの本質を知るためには、まず何より初めに「宗教の教祖の教え」と、「宗教教団の教義」は必ずしも一致していないケースがあることから知る必要があります。

🔵キリスト教の教えとイエス・キリストの教えの矛盾

一番よい例がキリスト教です。キリスト教が説いている教えが、必ずしもイエス・キリストが教えた教えと同じとは限りませんキリスト教の教えはパウロやユダヤ教に由来することがたくさんあるからです。

■ パウロ「主の御名を呼び求める者は全て救われる」

たとえば、このブログでも以前書きましたが、パウロは「イエスが主であると告白し、神がイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」「主の御名を呼び求める者は全て救われる」とローマ人への手紙10章9節で説いています。

■ イエス・キリスト「一番弱者で困っている人を助ける人は天国に入れる。助けない人は天国に入れない」

イエスは「一番小さくて弱くて困っている人を助ける人は天国に入れる」とマタイの福音書25章で説いてます。しかし、助けない人は天国に入れない、と言っています。

そこには「私が主であるとあなたが告白し、私がよみがえることを信じれば、あなたは天国に入れます」とか「私の名を呼び求める人はすべて救われる」「キリスト教に入信しなければ救われない」など、言っていませんし、イエスが直接そのようなことを言っている箇所は新約聖書には存在しないのです。

明らかに、イエスキリストとパウロの主張には矛盾が生じています。

しかし、それでもキリスト教はパウロの主張を取り入れています。このような経緯からなのか、教会は「キリストを信じる人は救われ、信じない人は救われない」という風潮を作り出しているのです。

しかし、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方である」「サマリア人(異教徒)でも人を救う愛のある人は隣人(仲間)です」とルカによる福音書10章25節で直接言っていますし、パウロの教えとは大きく異なるといえます。

これは一例に過ぎませんが、教会の教えとイエス・キリストの教えは大きく異なるケースがところどころに見受けられるのです。

世の中で「キリスト教の教えは受け入れがたい」と思う人は、おそらくイエス・キリストが直接明言していないことで、つまづいている人多い、と私個人は思っています。日本人が思うほどイエス・キリストは受け入れがたい存在ではないのです。

キリスト教でないと救われない、という教えはイエスが直接語られた教えではありません。そのため、この点でも矛盾することはありません。

複数の宗教で存在する、存在しないで意見が分かれる現象は基本的に肯定する ~ 宗教の矛盾③

これは、私個人の考え方なので、絶対正しいとまでは断言しませんが、おそらく正しいであろうと信じていることです。

「あるテーマで1つの宗教では存在を否定し、1つの宗教では存在を肯定する」という場合、存在する証拠があれば「ある」と言われているほうを優先にします。※例外はあります。

たとえば、輪廻転生、多神の存在、カルマの法則などです。

🔵 キリスト教が輪廻転生を否定する理由。仏教と矛盾する?

たとえば、「輪廻転生」「生まれ変わり」です。キリスト教では「ない」と否定し、仏教では「ある」と肯定しています。

そこで、世界中を見渡すと前世の記憶を持つ人や退行催眠などで、輪廻転生の事実が発覚してきています。また、生後まもない赤ちゃんでさえ、前世の話をしたりすることがあります。そして、過去世の記憶が事件の犯人逮捕のきっかけになったことさえあります。

優秀なサイキック能力の方、霊能者の先生であれば、直接人の前世を見ることができます。宇宙存在のチャネリングによっても、前世は存在すると言われています。

ここまで多くの証拠が出てくれば、輪廻転生、生まれ変わりの現象は否定できないでしょう。

そのため、今日ではキリスト教圏でさえ、生まれ変わりを信じる人が増えています。

このように、様々な証拠が出てきている場合は「ある」と思って良いでしょう。というのも、無いことを証明することは難しく、あるとわかっていることはいくら否定しようがあるわけです。

なお、イエスキリストご自身は新約聖書のなかで輪廻転生を明確に否定していません。否定も肯定もしておらずただ言及していないだけの話です。それなのにキリスト教や教会では「イエスが教えてない」という根拠で輪廻転生を全否定するわけですから、キリスト教が輪廻転生を否定する根拠は、論理的に見て薄いと思て良いでしょう。

それと、ルカ福音書20章27節ではイエス・キリストが生まれ変わりについて言及しています。「神によってえらばれた人が復活するとき、神の子として天使のようになる。だから誰の妻でもない」これで、生まれ変わりがないと言えるのでしょうか?

キリスト教の方には「イエス様はいつ、輪廻転生を否定されましたか?」と尋ねてみましょう。

また、それぞれの宗教の教義が何を否定しようが、現実世界で証拠がたくさんあるものはそれが実在するものとして、個人的には認識しています。真実は何か?を追及することは大切です。

🔵 仏教は創造主の存在を否定。他の宗教と矛盾する?

仏教では創造主を否定しています。
密教では大日如来という形で創造主、あるいは創造主に近い存在を肯定していますが、仏教では密教以外の多くの宗派では創造主の存在を否定しているようです。

■ 仏教の根源、源流は古代インドの本場ヨガ。創造主を肯定する。

たとえば古代インドのヨガは瞑想によって自己を超越して、創造主(ブラフマン)と一体になることを目指しています。そしてサイキックな能力に目覚めたり、神の情報を得たりして霊性を高める、それこそが古代からインドにある本場ヨガの目的です。ちなみに、体を動かしてポーズを決めるヨガはハタヨガといって本来のヨガから派生したものです。

仏教はお釈迦様が、この古代インドのヨガの教えで瞑想を学ばれて、お釈迦様自体がヨギーともいわれることがあるほどヨガを実践されています。

ヨガの教えでは創造主と一体になる瞑想をするので、お釈迦様はお師匠様から創造主と一体になる教えを受けたはずです。お師匠様から教わった期間は6年間。その流れをくむヨガの悟りでお釈迦様は仏教を開かれました。

しかし、いつのまにか創造主の存在は消えてきました。

■ ヨガの教えを起源にもつ仏教。しかし、禅宗は、創造主の存在を肯定しない

そのあと、1例を出すと禅宗はお釈迦様の教えを実践している仏教の一派です。

しかし、禅宗などでは、創造主の存在を肯定しておらず、瞑想は創造主と一体になるためではなく、無になることで悟ることを目指します。その禅宗の瞑想は、元をたどれば創造主の存在を肯定するヨガのはずです。

では、お釈迦様は「創造主などいない」と明言されているのでしょうか?そうではないようです。お釈迦様は「創造主がいる、いないの明言は避けている」すなわち、密教以外の仏教では創造主について、肯定も否定もしていない状態です。これは、様々なお寺のウェブサイトの説明からもわかります。

■ 梵天(ブラフマー)に諭されるお釈迦様のエピソード
梵天(ブラフマー=ブラフマン)がお釈迦様の前に現れて、「私こそ創造主だ」と言ってきて、お釈迦様に嘘を見抜かれて諭されたエピソードがあります。
しかし、お釈迦様に現れた梵天は、大梵天など形を変えて多数現れたために、この梵天の正体は果たして何者なのか謎の状態です。

仏教では「創造主の存在に言及しない」ただそれだけなのです。

ならば、創造主は存在して何も矛盾はありません。

そもそも、この世の中は何によって出来上がったのでしょうか?完全な無からは何も生まれず、宇宙のチリでさえ生まれません。ビッグバンさえありえません。

そして、創造主が存在しなければ説明がつかないような生物学上の仕組みは学者によってたくさん報告されているようです。お釈迦様が大切にされた「仏法という宇宙の法」にしても、その仏法は誰が作ったのか?「極楽浄土」は誰が作られたのか?とつきつめて問うと、何者かの存在に創造されたと理解するしかありません。完全な無からは法や涅槃の世界でさえ作られないからです。

創造主は存在する、と解釈することで何も矛盾はなく、そのように理解することが、多数の宗教を矛盾なく説明するためには一番自然のように思います。

なお、このブログの筆者は次のように理解しています。


この世の中にある多数の宗教の神様は、唯一の創造主(あるいは唯一の創造主の世界)からお生まれになられました。

多数の神様は人間には及びもつかない極めて崇高な存在から人間界に近い親のような存在まで様々な神様がいらっしゃいます。すべての人類および宗教の根本的な創造主は唯一です。言い換えればワンネスの世界。本源をたどればまったく同じ。

もし、宗教Aが唯一の創造主を崇めているのに、宗教Bの神様を全否定するのであれば、宗教Bの神様は誰によって創造されたのか? そこに、答えがあります。この宇宙の創造主はすべての人にとっての創造主であることがわかります。


🔵 なぜキリスト教は多神教を認めないの?神道と矛盾しない?

キリスト教は多神教を否定されて神は複数存在しないと説いています。しかし、歴史を見ると少し様子が違うようです。

まず、キリスト教は一神教のユダヤ教から派生しており、イエス・キリストご自身はユダヤ教徒です。そのため、ユダヤ教からひも解いてみましょう。

■ 拝一神教という多神を認める一神教

アブラハムからモーセ、そしてバビロン捕囚の前までは、ユダヤ教は純粋な一神教ではなく「拝一神教」と呼ばれる状態でした。

拝一神教とは、この世の中に多神教が存在すること自体は認めるが、一神教の神様と契約することで、一神教の神様のみを崇める信仰形態のことです。

そのため、ユダヤ教の世界ではバビロン捕囚前までは、多神教の存在自体は認められています。しかし、多神教の存在を認めつつ、ヤーウェ以外の信仰は認めない、とされます。

■ 一神教はバビロン捕囚後

ユダヤ人が戦争で負けてバビロン捕囚されたあと、拝一神教は一神教へと変わります。これがキリスト教へと受け継がれたわけです。

■ 第二バチカン公会議「諸宗教宣言」

第二バチカン公会議の「諸宗教宣言」では、カトリック教会が正式に他宗教への態度を宣言しました。

それは、それまでのキリスト教の偏狭排他的な態度を改めるために、他の諸宗教(ヒンズー教、イスラム教、仏教)などの宗教的な価値を評価し、これらとの平和的共存に向けて一緒に手を取り合って協力するというものです。

そのため、他宗教に対してはかつてほどの否定的な立場は取っていないようです。少なくとも、その価値を大切にする方向に切り替えているようです。

イエスキリストはユダヤ教の改革者だった

なお、イエスキリストご自身は、多神教の神について直接の言及はしておりません。イエスはユダヤ教徒でありユダヤ教の改革者だったので、ユダヤ教をベースに語るのが自然であり、「多神は存在する」と言ってしまえば、それはもはやユダヤ教ではなくなってしまいます。

そのため、ユダヤ教の改革者としての使命を抱いて世に出たイエスが多神教を表立って正当化するのは、むしろ不自然といえます。

イエスキリストは次のように語られていました。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(マタイ15章24節)。

それが、パウロや弟子たちによってキリスト教という世界宗教へと変貌を遂げるのです。

イエスは多神教の神の力や存在について言及していないので、べつに存在したと理解しても問題ありません。

実際は多神教の神は存在するのか? 現象界を省みればわかる

多神教の神は存在するのかどうか?をこの現実世界で見てみると、神社の神様や仏閣での仏様、菩薩様による奇跡の話は山のようにあります。

このブログの筆者も、神道の多くの神様、そして仏教の観世音菩薩様等、様々な霊的存在によって奇跡が起きて助けられたことはたくさんあり、これらの霊的存在は存在しないとするのが無理があり、架空のものではなく事実として認定するしかないのです。

存在しない、存在する・・・この2つが矛盾するときは、たいてい「存在する」が正しいといえるでしょう。

仏教で創造主は言及しないけどこの宇宙には創造主が存在し、キリスト教で多神教の神や生まれ変わりは認めてないけど多数の神様や生まれ変わりは実際に存在する。それで何ら矛盾はなく、また、それがこの世界の真実の姿を現しているように思います。

また、このように、宗教でお互いに矛盾するような教えになっているのは、それこそ、人智の及びのつかない大宇宙の創造主による御計らいなのかもしれません。


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