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○○が終わったら○○しよう

誰しも人生のどこかしらに大きなイベントを抱えている。それは将来的に必要なものであったり、趣味の範疇のものであったりする。それらの大きなイベントに向けて人々は、準備をしたり、一所懸命になったりする。その大きなイベントがある一定の期間設けられていた場合は、準備した上で、その期間を懸命に過ごすだろう。

「人間は、何かに縋っていなくては生きられない。」

このような言葉は、よく耳にする。歴史的に見れば、卑弥呼であったり、将軍であったり、政府であったり、天皇であったり、あるいは宗教、最近であればカルトなど、人々はあらゆるモノに縋って生きてきた。身近なモノで言えば、趣味、両親、好きな人、人によって様々であろう。
それらの中には、人生を賭して縋るものと、日常の中でプチ縋るものがある。前述の通り前者は歴史的に見ればわかる。
数ある後者の中には、「○○が終わったら○○をしよう」というものがあると思っている。

現在、私は実習であり、「実習が終わったら○○しよう」のラッシュである。この歳になると付き合いも多く、「実習終わったら○○しようぜ」が多すぎるので、とても困っている。

例えば、バイト先の後輩を飲みに連れて行かなければいけないし、昔の仲間とシーシャを吸いに行かなければいけない。同じ志を持った仲間とお疲れ様会なるものを何件かしなければいけないし、同じサークルの男共で飲み会が開かれる約束がされている。ここ1年仲良くしている女性とは、もんじゃを食べに行かなければいけないし、焼肉も食べに行きたい。

綴ってみれば、お酒ばかりのような気もするが目をつぶることにする。前述の通り、私は縋りすぎなのである。お金が足りない。8月にコロナにかかった10日分の入院保険が唯一の頼りである。

「○○が終わったら○○しよう」は、○○に対してどのくらい真剣に取り組めたかで○○の楽しさが大きく変わってくると思う(○○被りをしているため分かりにくいが伝われ)。ライブ後の打ち上げが有り得ないほど楽しいのはそのためである。華金で大騒ぎしている大人たちは、華金のために5日間労働しているのである。みんながみんな、頑張った後のご褒美が楽しみで仕方ないのである。

何かに縋ってしか生きられないだなんて、マイナスな表現は少々間違っていると思う。縋れるだけ私たちは幸せなのではないか。この暗黒の時代に光をもたらすのは、個人の縋るものであり、その媒体がもたらす幸せである。「幸福度は国が決めることでは無い。」幸いにもそう言える世の中である。
人生がどん底になろうが道に迷おうが、何かに縋っていればどうにかなる。
人は強くなくていいし、弱いことを恥じなくてもいい。私たちがどんなに弱かろうが、何かに縋り、少しでも笑える時点で最高なのである。

大それたことを語っているが、これは私が実習終わりの楽しさラッシュを正当化するための文句に過ぎない。実習が終わったらいっぱいお酒を飲みます。生徒たちや、親切にして頂いた先生方との別れを惜しみながら。

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