エンジンの在りか

 生きるための原動力は、人それぞれだろう。つい最近まで、私の生きる原動力は復讐心だったように思う。転校続きであったことと、太っていたこと、その2点が揃っただけで漏れなくいじめの対象となった私は、小学生であった6年間、基本的に虐げられ続けた記憶しかない。自分の身を守るのに必死でありながら、どこかでこんな辛い人生ならばさっさと終わってしまえばいいなと、幼いながら常に思っていた。死生観は、記憶が芽生えたときから、ずっと私とともにある確かな感覚だ。生きるか、死ぬか。いついかなるときも、私の頭の中にはその二択がぐるぐると渦巻いている。

 時代がどれだけ移り変わろうと学歴主義を地で行く我が国社会を象徴するかのように、私の人生が少しずつ好転していったのは、中学生になり、テストの成績が公表されるようになってからだった。片田舎の弱小中学校ではあったが、120名程度で構成された学年の中で、5教科の成績は一度たりとも一桁前半を外したことは無かった。6年間虐げられた人間が、学級委員となり、部活の部長となり、生徒会の役員となり、体育祭の応援団長となり、、、学年の主力となっていくに連れて、学生生活は傍から見れば明るいものとなっていったが、自分の中に渦巻く闇のようなものはジワジワと増幅していくばかりだった。俺をいじめたあいつらを見返してやりたい。自分の中で完全にあいつらよりも優れた立場にある人間であるという確信を手にしたい。イライラは募る一方で、人に手を出してしまってはまずいので、校舎の一部を破損させては教師に呼び出され、悪態をつき、親に連絡が入り、、、を繰り返した。それでも、自身の後ろ盾となっているものがテストの成績だけだと分かっていたので、順位は一桁前半をキープし続けた。自身の存在意義は、テストの成績だけだった。テストの成績が申し分なければ、生活態度や宿題の提出状況が悪くても、教師は通知表上、そんなに悪い成績をつけることもなかった。大人もそんなもんだと見限ったのは14のとき。何が客観的で公平な指標だ。テストの点数さえよければ、何をしてもお前らは悪い評価をつけないじゃないか。下らない世界にウンザリし続けている間に同級生は異性交遊を開始し、セックスをし始めた。羨ましい気持ちはあったが、でもそういうやつらは皆テストの成績が悪かったので、どうでも良いように思えた。

 そうして高校3年間をモヤモヤしたままやり過ごして、偏差値60程度の大学に進学した。小学生のときに、中学生のときに、俺を虐げた人間は、俺よりも偏差値の低い大学に進学し、俺よりも中途半端に見える高校生活を過ごし、俺の周りからは徐々にいなくなっていった。個人的な感覚としては視界から消え去っていくようなイメージだった。いつしか俺の周りには、それなりの大学に進学した、それなりに頭の良い、各部活動や生徒会活動などで活躍した人間だけが残った。大学2年のときに、ふと思った。あれ、俺、何で生きてるんだっけ?と。

 気が付くと、かつて俺を虐げたあいつらを見返してやりたいという復讐心は完全に充足されてしまっていて、依って立つところを完全に失っていた。まだ女子との交際経験はなくて、セックスを早く済ませないとまずいんじゃないかと思い始めていた。大学の成績は相変わらず悪くなかったが、それだけでは人間的な立ち位置を安定させることが出来ない世界にあくせくしていた。そんな折、ちょうど想いを寄せていた同級生にいつの間にか彼氏ができていたたことが発覚し、ショックのあまり煙草に手を出して、そのまま風呂に包丁を持ったまま入っていた。手首に軽く刃を当てて見たものの、結局、死ぬ勇気も覚悟も持ち合わせていなかった俺は、20歳の秋の夜、風呂場に裸で包丁を持ったまま手首から少しだけ血を流して、赤ちゃんのように泣きわめいた。情けなかった。今まで何となく辛くなったら人生終わらせればいいと高をくくってい生きてきた。寧ろ、復讐心と、最後は死ねばいいという達観した気持ちだけが、自分の生きる原動力、エンジンだった。にも拘わらず、簡単には死ねないことが明確になってしまった。もはや勇気もなく、覚悟もない俺には、不本意ながらダラダラと生きていく道しか残されていない。悟った20の秋の夜。今まで吸った煙草の中で、一番苦くて、一番美味い味がした。

 紆余曲折のあった就職活動も上手くいき、世の中的にも申し分のない会社へと就職することが出来た。かつて俺を虐げた同級生たちが、どこへ就職したのかなど知ろうとも思わなかった。どうせ俺の方が、世の中的に見て、圧倒的にまともな会社に就職を果たしているという自負があった。ますます生きる意味が薄れていった。それでも、あの日の夜の恐怖心だけは拭い去ることができず、もはや生きるしかない、自身の意志で死を選択する余地はないという瀬戸際で生きていたような気がする。

 就職後、いきなり癖の強い上司にいびられ、散々パワハラを受けながらも仕事を覚え、社会人として逞しくなっていった。抑圧される中で返って実力がついたのか、自分でも自覚できるくらいに成長していき、どんどん大きな仕事を任されるようになった。それでも何処かで早く人生が終わればいいと思う気持ちに嘘偽りはなく、残業で稼いだ分だけ飲みに行き、必死に煙草を吸い続けた。それなのに、いつの間にか結婚して、子どもが産まれていた。子どもと生活していく中で、やっと復讐心に代わる自分のエンジンを見つけたような気持ちになった。こいつが大人になって、独り立ちできるようになるまで、俺は生きて、働いて、妻と子どもを養っていかないといけないんだなと思うようになった。

 生きるためのエンジンの在りかは人それぞれだ。復讐心を初めとしたネガティブな感情はとても大きなエンジンたり得るものの、いつしか終わりが来ることもあるし、終わりが来なければ人生に救いがない。復讐心だけで人生の大半を乗り越してきた俺に待っていたのは、復讐が終わった後の空白を埋める苦しみだった。その間、ずっと抱いてきた死生観に対する確認作業があり、簡単に死を選ぶことはできないことを思い知りつつ、実は生きたいと必死に願っている自分の存在に気付くこともできた。

 だから、混迷を極める不確実性に充たされた時代だからこそ、生きるためのエンジンは、常に前向きなものでないと、人生を全うするだけの長い期間、燃焼し続けることは難しいと思う。一時的な負の感情に身を任せることのリスクの高さを、この文章を読んだ方にお伝えしたい。そんな気持ちで乱雑な文章を書き連ねた。

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