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ある時からしなくなったこと。

よくInstagramのストーリーズで「エモつぶ」と題して、

ちょっと自分の中にあるエモい観念や思想をつぶやくみたいなことをしばらくやっていた時期がありました。

振り返るともう半年以上そういう発信をしていなかったのに気づき「ああ自分も進化したんだなあ」と善きように最近は自分の変化を捉えてみたりしています。

そもそもエモつぶってどんなことを言ってたの?
というと、

例えば「環境保護は人間のエゴという視点が抜けてやしないか?地球のためにではなく自分のためにというニュアンスの方が驕っていなくて好きだ。」とか(ちょっと真面目で重力感じますね。。)

他にも色々とすごくちゃんと思考していたなあと思います。今でも物事を多面的に捉えようとしたり、自分の哲学ってなんなのかを思考することは、もうもはやライフワークみたいなところもあるんですが、それをserious感を含ませて発信するみたいなことは無くなりました。


今思えば思考し言語化することに対してほんの少し「得意気」な感じを持っていた気がしています。思考が深まるにつれて物事への理解が深まるのは言わずもがな。理解が深まることで得られる安心感やユリイカ的な感動。そういうものは大好物なので、それを求めて思考過多になりやすいのは自分でもよく分かっていました。

なので思考することと同様に大事にしていたのが、(もしくはそれよりもっと重きを置いていたのが)身体感覚に意識を向けることのできるヨガで、これでいつも思考と身体のバランスを測っていました。本当にヨガは生きるために欠かせない「身体の “力”」を高めてくれるものだと思っています。

話は戻りますが、なぜそのちょっぴりseriousなエモいつぶやきをしなくなったかというと「求められていない」気がすごくしてきたから。そして「私考えてますよ」ってわざわざ表現しなくても内側で煮詰めていることって伝わると信頼できるようになったから。

私は楽しく生きたいしそして多分周りの人もそうだから、seriousな感じじゃなくて「楽し気」な方が単純に良い!と思い始めたのが大きなきっかけだったと思います。

そして先日のコテンラジオで深井さんが仰っていましたが、

「近代以降、”感覚でこっちが良いかも”の価値を下げすぎている。説明ができないという理由で。」

歴史を面白く学ぶコテンラジオ

“言語知”が持て囃され “身体知”が蔑ろにされる傾向がある近代。もれなく私も得意じゃないくせに頑張って時代の潮流に乗ろうとしていたんだと思いました。(言語知が得意な人は引き続きお願いします!)

で、最近はシンプルにみんなで感動の感覚を共有したいとか、ただ身体が感じることにもっともっと歓喜していきたい!そんな気分が高まっています。


一方の思考や言語化は得意じゃないけどやっぱり好きだから(そして自分なりに思考し続けることは本当に大事だと思うから)これからももちろん深海にてずっと続けていきますが、もっとみんなから見える浅瀬では、プカプカ浮き輪に乗って鼻歌でも歌って楽し気にやっていきたいと思っている最近です。



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