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「今日が人生のピークかも」と思った日からもうすぐ10年が経つ

「今日が人生のピークかも」と思った日からもうすぐ10年が経つ。

私が所属していた吹奏楽部はその夏ある大会を勝ち進み、秋の本大会に出場した。初めて見る太平洋に初めて聞くイントネーション。見たこともないほど大きなホール。

演奏直前にステージ最後列から見たざわめきがひいていく客席と、いくつもの小さな照明が重なってキラキラしている光景は写真を撮ったみたいに今でも頭の中に残っている。


大会は無事に終わり、みんなで美味しいごはんを食べてホテルに戻った。ふかふかのベッドに寝転びながら「今日以上の日ってこれから私の人生に訪れるのかな」と思ったのをよく覚えている。


大学に落ちた時、就活で思うような進路を選べなかった時、「やっぱりあの頃がピークだったのかな」なんて思っていた。

だけど今は違う。もちろんあの日がピークになる可能性もあるけど、そうじゃない可能性もある。そしてピークだけが大切なわけじゃないということも今の私はちゃんと知っている。


ピークかになるかどうかはまだわからないけれど、間違いなく人生で一番無敵だったとは思う。自分たちの演奏が最高だと信じて疑わなかった。

疑わないでいられるだけの、時間も情熱もあの頃の華奢で頼りない身体が持ち得る何もかも、本当に何もかもを注いできたという清々しいほどの自負があった。


あの夏の私は毎朝母の声で目覚めると用意されている朝食を食べ弁当を持って、夕方延長届けで許されているギリギリの時間までの練習を終えヘロヘロで帰宅し、制服のスカートをソファの背もたれにかけリビングでセーラー服と短パンという奇妙な姿のまま爆睡していると父に引きずられて食卓に連れて行かれ、半分寝ながら夕飯を食べ毎晩のように湯船で溺れかけていた。

成長期が重なっていたのもあってとにかく眠いしお腹は減るし大変だったのだ。家族のサポートがなかったら絶対にできなかった。


恐ろしいことにその夏の記憶はほとんどない。10年前だからという訳ではなく、当時からかなり曖昧だったように思う。

周りが出す音を注意深く聴き、そこに気持ちよくはまるように自らの音を鳴らしていた時間以外を覚えていないのだ。

一緒に行ったと今でも付き合いのある友達が教えてくれた地元の花火大会の記憶も、お盆休みの祖母の家での記憶も、好きだった男の子の記憶もない。それくらい何というか、ただごとではない夏だったのだろう。


話を今に戻します。

「あんな瞬間はもう二度とないから、思い出を胸に抱いて生きていこう。」なんてことが言いたい訳じゃなくて、

「あの瞬間を超えるために頑張っていこう!」ってことでもなく、ただ

「あんな瞬間があって良かったな。」

ってことなんですよね、多分。


結局その大会では欲しかった賞がもらえなかったんだけど、「これで無理なら無理だよね」と笑いあえる強さを当時の私たちはもっていて、今の私にはそれがすごく愛おしいし、何より心強い。


生活があって諦めを知り、少しだけ賢くなってしまった私にはもうあの頃みたいな純粋さはないし、努力が必ず報われるわけじゃないことも知っている。だけどあの日の無敵感を思い出すと、もう少しくらい夢見がちでもいいのかな、なんて思ってしまうのだ。

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