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父のあるべき姿とは

Amazon Primeビデオで『アド・アストラ』を観た。
ブラッド・ピットの言葉少ない演技が本当に素晴らしくて、ただひたすら彼の表情を楽しむ映画だと言っても良いほどだった。

僕は観ている間、自分の父の事と、父としての自分について考えを巡らせていた。

幼い頃は大好きだった父

父は、僕が物心ついた頃から何をやっているかよく分からない人だった。
時にはパン工場勤務。
時には運送会社で運転手。
時には家庭教師。

気がつくと職が変わっていた。
ただどの仕事の時も、家に帰るといつも眉間にシワを寄せて不機嫌そうにビールを飲んでいた記憶がある。

また、この世代の人たちのあるあるなのかもしれないが、『男はつらいよ』や『仁義なき戦い』が大好きで、雰囲気だけで仁義だとか人情だとかを語っていた。
当時はそれが雰囲気だけだとは思っていなかったけど。

いつだったか、急に父がスキンヘッドになって帰ってきた事がある。
僕と兄は大笑いしてしまったが、母は呆れていた。
本人曰く、
「友人との賭けに負けたからだ」
という事だった。
何の賭けだったのか、は最後まで喋らなかった。

でも僕はそんな父が大好きだった。
どんなに酔っ払っても子供に手を上げたりする様な人ではなかったし、割と厳格な母に比べて、許容範囲の広い人だった。
映画館にもよく連れて行ってくれて、
「学校では教えてくれない事を教えてやる」
という寅さん直伝の教育論を持っている人だった。

夕方になると、小学生の僕を連れて近所の酒屋に行き、作業着を着たおじさん達と談笑しながら一杯やっていた。
僕はその空気が嫌いではなかったし、何より七輪で炙ったスルメを食べられるから喜んで付いて行ったものだ。

僕にとっては、このちょっとおかしな父親がまさに、学校では教えてくれないオトナな世界を教えてくれる存在だったのだと思う。
友人などには
「自分の父親だと思ってごらんよ、きついぜ」
なんてカッコつけて言っていたけど、本当はその平凡じゃない感じを素直にカッコいいと思っていたし、没個性を恐れていた思春期の自分は憧れすら感じていた。

そしてよく
「お前はお父さんに似ている」と言われて、嫌な顔をしつつ、まんざらでもない気分だった。

歳をとるにつれて、見えてきた一面

僕が専門学校を卒業して就職した頃、父は
「俺の父親の役割は終わった」
と言って、仕事を辞めた。
それから今に到る約15年ほど、全く定職に付いていない。

父は日々、早朝に起きてテレビを観て、たまに新聞に投書する文章を書いて、昼寝をしたり、散歩をしたりしている。
そして基本的には起きているほとんどの時間、お酒を飲んで酔っ払っている。

年金生活で悠々自適に生きていけるわけもなく、母が1人で仕事も家事もやって生計を立てている。
もちろん何度も離婚の話も出たし、僕もそれを止めたことはない。

1人でひたすら働いて、父を食わせている母の姿を見ていると、昔の様に漠然と父を肯定出来るわけもない。
何より、毎日酒を飲んで好きな様に生きている父親は、まったく幸せそうには見えない。
毎日毎日、何かを後悔し、退屈さを酒で誤魔化してやり過ごしている様に見えた。

少し前に、昔よくつれて行ってくれた近所の飲み屋に久しぶりに一緒に行ってみた事がある。
お店は昔のままで、昔と同じ様に作業着を着たおじさん達で賑わっていたのだけれど、父は全く会話に入って行けずに独りでじっと飲んでいたのを覚えている。
もう今の父は労働者ではなくなっていたのだ。

それ以来、父の誘いは基本的に断っているし、父からの電話も基本出なくなってしまった。

どうしてなんだろう。
変わってしまった父を見るのが辛かったからだろうか。
昔の憧れが幻想だったと認めるのがいやだからだろうか。

父としての自分

そんな僕も2年ほど前に父親になった。
子供を育てていると、どうしても頭に浮かぶのは父の姿だ。
よく「自分の親にされたことしか出来ない」と言うけど、まさにそうだなと思っている。

今でも父の事は軽蔑しているし、反面教師にしようと思っている。
それでも自分がどんどん父に似てきているのも実感しているし、それが怖いとも思っている。

でも『アド・アストラ』を観てふと思ったのは、
子供に愛され好かれる親が必ずしも良い父親なのか、ということだった。

子供は成長する。
世界の事なんてなんにも知らない0歳の頃から、思春期を通り越して成人になる過程を共に過ごすのが親だ。
その全期間で子供に理解されたり、好かれ続けるのは不可能なんだと思う。

僕の父は今現在は僕に軽蔑されているが、少なくとも思春期の僕の憧れであったのは事実だ。
それは僕の心の中に思い出として残っているし、僕の人格形成に大きな影響を与えた。
父親の役割はもしかしたらそういう事なのかもしれない。

父の背を見て育つ、なんて言葉があるけど、結局のところどんな風に自分が生きていくかを見せる事しか出来ないのかもしれない。
それをどうジャッジするのか、は子供の決める事だ。
子供にとって最も身近な”他者”として、同調したり反発したりを繰り返していく事で子供自身が成長していく。
僕自身はそのためのサンドバックに過ぎないのだ。

『アド・アストラ』でのブラッド・ピッドも父親の背中を追いかけ続けた。
宇宙の果てまで追いかけた結果、手が届いた。
だが彼は、父親とは逆の方向に進む決断をする。
父を残して、来た道を引き返していくのだ。

僕の娘はいつか僕のことをどんな風に思い出すのだろう。
それこそ僕にとっては、宇宙の果てほどに遠くて手の届かないものだ。

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