20240408 心理士M先生との面談 「頑張ること」や「役割」についての、根源的な自身のモノの見方について


話したかったトピック①コミュニティの中での自分行動が「良かれ」なのか、「やらなきゃ」なのか、自分で判別がつかない。

仕事の場面が最も顕著だが、所属しているコミュニティの中で、自らキャパを超えて仕事を拾いにいく。というより、キャパを超えていることに気付かない。
誰が拾ってもいい仕事を、反射的に拾ってしまう。あとで冷静に振り返ると、忙しいタイミングが事前にわかっていて、拾うことでむしろチームに迷惑をかける可能性が高かったことに気が付く。その場では、なぜ、そうしてしまうのか分からない。

◎カウンセリングの中での気付き
・自分が苦手なことがある分、拾うことでチームから必要とされたい、という気持ちがある。
・「そのままの自分」で受け入れられると無根拠に思えない。できていることは、人の間に自分がいていい根拠になる。

話したかったトピックその②自分の中で、もやもやが整理できていないと、なかなか行動に移しづらい

・頭で色々考えてしまって、実際に行動に移してからの処理のスピードが遅い。インサイドセールスやテレアポの業務の中で、試行回数が伸びていかないことに課題がある。

◎カウンセリングの中での気付き
Q:そもそも、試行回数が伸びないことに対して、なぜそんなにこだわってしまう? アポイント件数は平均以上の数値など、出来ているところもあるはずなのに。

・自分のできていないところや苦手なところににフォーカスして、「『ここが出来ていない』と周りに評価されているんじゃ・・・」と不安になってしまう。できているところを取り上げて「アポイント率が高くて(自分は)頑張ってる!」と評価することもできるはずだが、そういう見方にはならない。

⇒能力を五角形で表したと仮定して、綺麗な形の五角形にいまだに執着している。高校の頃に苦手だった5教科をいまだに勉強したいと思ったりする。人より苦手なことがある自分を、自分自身が許せない。全部できていないと、なんで自分は生きていていいんだろう、と思ってしまう。できていないことが多くなってくると、自分はこのコミュニティにいてはいけない、捨て置いてほしいと感じてしまう。

⇒これまで生きてきた中で例えば「国語はこんなにできるのだから、数学や英語ができないのは勉強時間が足りないからだ」「能力があるのだから、やればできるのになぜやらないのだ」と関わってこられたことで、その価値観を自分自身の中に取り入れてしまっている。本来は、様々な条件がそろわない「頑張っている」状態になれないのに、「頑張ったらきれいな五角形になれるはず」と自分で妄信している。「ポテンシャルがある自分」、言い換えると「頑張ったらいろいろなことができる(だろう)自分」であることが存在の根拠になっている(自己効力感だけは無駄に高い)。
これまで、「頑張っている自分」「成果を出せている自分」「期待に応えられている自分」「与えられた役割に沿った振る舞いができている自分」であるときは、人の間で受け入れられている感覚があった。
逆に言うと、「できない自分でも、『いてもいいよ』と受け入れられること」は一切なかったと言い切れる(少なくとも、発達障害が発覚するまでは両親もそうだった)。「やったらできる」に縋らないと、自分がこの世界に存在していい根拠が揺らぐ。WAIS検査を受けたり、社会人経験を積んだりしていく中で、自分でも綺麗な五角形になること、つまり「なんでもできる自分」になることは難しいと頭では理解しているが、それを受け入れてしまうと生きていけない。

次回話したいトピック

・どうやったら、「ありのまま」の自分を受け入れられる? 諦めがついているようでついていない自分を、自分の可能性をあきらめられない自分を、どう受容していけばよい?

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