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父を送る(8) 無人の実家

土曜日。眼科に寄った後で実家へ向かう。実家の最寄りのバス停で降りてからまずは床屋さんへ向かった。田舎の小さな床屋さんは、お店と自宅が繋がっているような造りをしていた。商売の邪魔しちゃ悪いかなと考えて、まずは自宅の方のチャイムを鳴らした。はーい、と女性が出てきてくれた。すみません、●●の娘ですが…と言うとあぁ、メダカちゃんの!とすぐに分かってもらえた。メダカちゃんここにいますよ、元気ですよと玄関横の鉢を指しながら教えてくれた後、受けたのはうちの母なんです。お店の方に居るので直接声掛けてもらっていいですか、と言われた。わかりました、ありがとうございます。と答えて隣の床屋さんまで移動してドアを開けた。中にはお客さんがいて、散髪している最中だった。ハサミを握っていた、父親より少し下の世代に見える女性が手を止めてこちらに振り向く。すみません、●●の娘ですけど…ともう一度名乗った。すると床屋さんはあぁ!と言ってお客さんをそのままにしてこちらに近づいてきてくれた。お父さん大丈夫?なんかねぇ、何かあった時のためにってことで家の鍵と車の鍵を預かったんですよ。うちは全然構わないんだけどね。娘さんには承知しておいてもらわないとねぇ、と言われたので、ありがとうございます。すみませんが鍵はそのままお願いします。と伝えてから、父は家の風通しまで頼んでいたようですけど、それは私が月に一回くらいこちらに来てやりますので、と付け加えると安心したような顔でそう、そうよねぇ。流石に家の中に入って…って言うのは私たちもちょっとできないと思ってたから…と返された。父親の病状、手術の内容、施設に入る予定などを聞いた床屋さんがそう、そうなの。と頷き、なんかねぇ、「話したくないやつとも話さなくちゃいけない」なんて言っていたわ。話したくなくたって家族なんだからなんとかしなくちゃって答えたんだけど。と父親が話していたことを教えてくれた。ここでも父親は弟のことを考えていたらしい。
しばらく話した後、またご連絡しますので、ご迷惑をお掛けしますが…と言いながら手土産のお茶を遠慮する床屋さんの手に押しつけるように渡して実家へ向かった。着いてすぐ家中の窓を開ける。家の中は意外にひんやりとしていた。居間と二階の廊下にある小窓がほんの少しだけ開けてあった。少しでも風通ししておきたかったのだろう。
一休みしてから父親が電話で繰り返し話していた今後についてのノートらしきものを探すが見当たらない。テーブルの上に、どこかの経済誌が出している別冊雑誌が置かれていた。表紙に「おひとりさまの老後手続きガイド」とある。父親が指していたのはこれのことだろうか。エンディングノートみたいなものを想像していたが、他にそれらしいものも無かったのでとりあえず雑誌を開いてみた。あちこちに付箋が付いている。生前贈与のこと、株の名義変更について、葬儀のトレンド…付箋はたくさんあったけど、ただ情報が載っているだけで父親のメモらしきものは一切ない。どういうことなのか意図が分からない。他に無いのかなと家中の戸棚を探し回るが何も見つからなかった。この雑誌のことを言っていたのは間違いなさそうだけど、父親の意思がわかるものではなかった。なんなんだよもう。
風通しが終わるまでの間、居間で寝そべってダラダラ過ごしていると庭から声がした。見ると、先ほどの床屋さんがご夫婦でいらしていた。大丈夫?と聞かれてはい、大丈夫ですと答える。これよかったら食べて、とハーゲンダッツのアイスを二ついただいた。スーパーの無料でもらえるような透明のビニル袋に入っていた。お茶を受け取って、何かお返しをと考えて慌てて見繕ってくれたのだろう。ありがたく頂戴する。ご主人が植木に水くらいはやりに来ますよ、と言って下さった。心からお礼を言ってお別れした。早速アイスを一つ食べた。美味しかった。

風通しもそろそろいいだろうと頃合いを見計らって家中の窓を閉めた。来た時と同じように小窓を少しだけ開いたままにする。しっかり戸締まりし、二時間半掛けて家へと戻った。




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