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どうして、名著の要約はできないのか?ー私が図書館を愛する理由

「名著のエッセンスをまとめた本」というものがある。
「忙しいビジネスマンでも教養を身につけられる」として称揚する向きがある一方で、「ファスト教養」として唾棄する人もいる。
実際、私は学内新聞でトルストイの「戦争と平和」のあらすじを四コマ漫画にした際に、ある教授からこっぴどく叱られてしまった。
「本質が完全に抜け落ちている!」

肩を落としながら帰路についた私は自問した。
「本質を短時間で吸収するために他人の頭脳を借りることの何がいけないのか?」
「そもそも、ある本の【本質】を抽出することは原理的に不可能なのか?」

当時は分からなかったが、今はこれらの問いに対して、自分なりの答えを与えることができる。
そしてこれは、「読書」という行為の核心に関わる重要な問題を孕んでいる、と感じている。

私と読書のこれまでの関わり

「万巻の書を読まねば、一流の人物にはなれない」

父の言葉

幼い頃からそう言い聞かされて育った私にとって、図書館はある種の目眩を起こさせる空間だった。

「そうか、いつかはこの図書館の書棚に並ぶ全ての本を読まなければいけないのか」と自分を奮い立たせながらも、ページを繰る手が遅々として進まない現実とのギャップに、途方もない無力感に浸された。

社会に出てからは、読書なんて必要なくなった。向かってくる問題の一つ一つを解決することに価値があり、報酬が発生した。時事刻々と変化する世界の中で、本質的な価値提供を行っていくために必要な情報は書物には載っておらず、技術を持っている人に直接教えを乞うしかなかった。

それでも私はやっぱり読書が好きだった。当時の私は二つの価値観の間に挟まれていた。「知の巨人になるために万巻の書を読め」という小さい頃からの圧力と、「埃の被った本を何冊読んだってカネにもならないし役にも立たない」という世間からの圧力の間に挟まれて、どうにも鬱屈していた。

人に聞かれたら、「読書が趣味なんです」と言った。
でも本当は、読書を私の人生の片隅を占める「趣味」として位置付けることが嫌だった。読書は私にとっての「人生と宇宙の全て」でなければならない、という感覚があった。

そんなある日、私はある不思議な体験をし、「文字の世界の宇宙が永遠である」という深い確信を得た。なお、その時に得た気づきの断片については、以下の記事ですでに紹介している。

その時以来、図書館は以前とは違った形で私の目に映るようになった。それは目眩であること変わりはないが、絶望感と焦燥の代わりに安心感と癒しを与えるものになった。

それは世界の中で他の誰でもない「私」によって読まれることを待ち続けているテクストの群れであり、それら書籍の物理的実体がたとえ明日、火事で全て燃え果てたとしてもなお宇宙の中に普遍的に漂うメロディであり、私がどこから来て、そしてどこへ向かおうとしているのかを告げる懐かしい思い出だった。

こうした感覚を言語化する努力の中で、私はジャック・デリダという思想家に出会った。そして彼が、「ユリシーズ」のジェイムズ・ジョイスに感銘を受けた内容において私と同類の人間であり、私の抱いている問題意識によく沿った思考を展開していることを知った。

ジャック・デリダが言いたかったこと

本稿の冒頭で提示した「名著の要約」という試みに対して、クリティカルな打撃を与えられるのは、私が知る限りにおいてはジャック・デリダという哲学者の思考をおいて他にない。「脱構築」というキーワードで知られる彼は、あらゆる哲学者や文学者の言説を、その独自の「読み方」を通して、従来の意味づけから解放した。

たとえば、プラトン中期の名著『パイドロス』は、普通は「恋愛を巡ってエロティシズムとロマンティシズムを対置させて論じた書物」といったような読み方がされる。「ファスト教養」流にまとめるとそれで理解した気になれる。しかしデリダはあえて、そうしたテーマはガン無視した上で、本書の最後の最後に出てくる「書き言葉と話し言葉の対立」に注目し、「これこそが『パイドロス』の真髄、いや、哲学という営み全ての真髄である」と言い切った。なんという暴挙!

だが、この言明がナンセンスではないことは、のちにデリダが展開した「脱構築」の哲学の広がりと深さからも明らかだ。彼のとったアプローチに対して、「重箱の隅をつつくような細部に注目して、哲学をぶち壊そうとしている」と冷たい批判を向ける人もいる。

しかし、ある本を「重箱」に入った料理に例えたとして、そのうちのどれがメイン・ディッシュで、どこが副菜なのか、を誰がはっきりと断定できるというのか? 広い世の中には、たくあん一枚を食べるために幕の内弁当を買う人間がいてもおかしくない。そしてたくあんの中に、和食の真髄を見出す人がいてもおかしくない。

「ホログラム」という物理概念

ある事物の小さな断片を切り取った時に、その小さな断片を覗き込む中に、その事物全体についての全ての情報が含まれている、という現象は、自然科学においてもよく見られる現象だ。

たとえばニュートンは、ヨハン・ベルヌーイが出題した最速降下線問題への解答を匿名で提出したが、ヨハンはその答案を見て「その爪痕を見てライオンを知る」といった。

こうした概念は、「ホログラム」の原理でもある。簡単に説明しよう。レーザーが作り出す干渉縞を特殊な感光紙に記録する。するとその干渉縞のどの断片を取ってきても、ホログラムの全体が浮かび上がる。つまり、干渉縞の中の極小の断片の中に、その干渉縞のパターンに関する全てのデータが余すところなく含まれている。

ホログラムの原理

デリダが他の哲学者を「読む」とき、彼はこのホログラム的な読解を実践しているように思える。

プラトンには「すべてがある」とデリダは言っている。それは、シェークスピアやツェランやジョイスに「すべてがある」のと同じだ、と。この「すべて」のうちには当然、テクストが、形而上学に「先立つ」形而上学の「他者」と、この「他者」を制圧、排除して自己を実現しようとする形而上学の欲望がせめぎ合う闘争の舞台になっていること、これが含まれているだろう。

高橋哲哉「デリダ 脱構築と正義」より抜粋

プラトンには「すべてがある」、というのは、つまり、人類の形而上学的恣意についてのあらゆる情報が、プラトンという「感光紙」の干渉縞のパターンとして結晶化したのが彼の哲学書群であり、そのどの断片を切り取っても、それについての全ての情報が埋め込まれているということだ。

読書とはホログラム鑑賞である。時代を超えて読み継がれる名著というものは、そのどの部分を切り取ってもその著者の熱いメッセージの刻印が刻まれており、そしてメッセージの中に、人類がこれまでに蓄積してきた文化の総体が暗示されている。そしてこのホログラム性こそが、「名著」の条件でもあるのだ。(確か理論物理学者のボームも似たようなことを言っていた。)

ここにおいて初めて、なぜ名著を要約することができないのかが明らかになる。すなわち、要約とはそのホログラムの微細な構造を破壊する行為に他ならない。そんなことをしたら、干渉縞が崩れてしまう。要約をするくらいなら、その本の抜粋を並べた「抄訳」のスタイルの方がマシだ。だから、「要約」よりも「抄訳」。

私が図書館を愛する理由

さて、私が読書の本当の面白さに目覚めたのは、この「ホログラム性」に気づいてからだ。そしてこの性質は、読書体験の中だけにとどまるものではなく、私が生きている生命の在り方、さらにはこの宇宙の在り方にまで、シームレスに拡張されうるのだ。つまり、この宇宙もホログラムであり、私はそのパターンを記録した一枚の感光紙にすぎない。そして、名著もまた、人類文化の最良の部分を余すところなく記録した一片のホログラムである。

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