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近代科学を「時間」の新たな定義で乗り越える独創ーベルクソン『創造的進化』書評

倫理の教科書で知った「ベルクソン」のイメージは、「笑い」の一言に尽きる。

これほどまで独創的な哲学を構築した方だったとは、知らなかった。

ベルクソンの著書では『物質と記憶』『時間と自由』が代表作としてあげられるそうだが、そんな彼の哲学は、「時間」についての本質的考察に基盤を置いている。

さて、「時間」とはなんだろうか。

近代科学においてそれは、「パラメータt」に過ぎない。縦・横・高さに加え、四次元方向に向いた独立な次元であり、基本的なイメージは数直線。

この独立したパラメータtに沿った質点の運動を分析することこそが、ニュートン以来の近代科学の伝統である。時空をぐにゃぐにゃのシートとして捉えたアインシュタインにおいてもこの基本は変わらない。

だが、この近代科学の前提を、ベルクソンは蹴り飛ばす。

ベルクソンにとって、近代人の語る「時間」は本当の意味での時間ではない。法則化・記号化した上で方程式に落とし込めるような「時間」は、物質界に属する性質に過ぎないというのだ。

時間論で有名なのが、古代ギリシアの「ゼノンの矢」。矢を放って、それが描く軌道を一瞬一瞬ずつ写真におさめた時に、それぞれの瞬間においては矢は止まっているという話。映画制作をしているとよくわかる話だ。どんな動きの激しいアクション・ムービーも、一コマ一コマ見ると止まっている。

しかし、そのような「映画的原理」で捉えられる「時間」認識は本質的なものを見逃している、というのがベルクソンの主張。

では、本当の意味での時間とは何か。

それは、「持続する意識」に他ならない。

確かに現実に目の前で展開する現象、例えば飛んでいる矢を見ると、「時刻tにおける矢の画像の連続体」としてしか私たちの視覚は認識することができない。ところがそれを認識するのは物質界に属する私たちの「知性」であって、「時間」認識におけるそのような性質は私たちが当然のものとして使用している「知性」そのものに由来する限界であるとベルクソンは語る。

人間には、「知性」を超える「直観」が備わっており、それこそが「持続する意識」を感じ取る主体である。この意味での「時間」は生命や意識に表象される「もう一つの秩序」を織りなす生地であり、物質界に対比される精神的次元の基盤をなすものだ。

これ以上議論をしても蛇足になるだけなので、面白そうだと思った方はぜひ自分で読まれることをお勧めする。

アンリ・ベルクソンは19世紀後半のフランスで活躍した哲学者だが、その思想を見ると仏教の復活としか思えない。「無」「空」「諸行無常」「諸法無我」ーこのような概念が、芸術的・科学的分析を持って詳細に語られる本書は、近代科学を超える「仏教科学」を打ち立てる指導原理を述べた書であると言えるかもしれない。

論点は多岐にわたる。

SFの種になりそうな独創的洞察ばかりで、これほど美味しい本に出会えて幸せだ。

折に触れて紹介していきたい。

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