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昔のじぶんと会話する

どんなことを答えるか、というのがいちばん、その人間を表す。だから、いなくなったとき本当にかなしいのは、その存在が近くにないことではなく、話しかけても質問しても、答えが返ってこないことなんだ。それか、どこへ話しかけていいのかわからない場合。たとえば、お墓ってのはこれのためにあるものだと、わたしは思っている。

どんな答えが返ってくるか、知りたい? 自分がいちばんよくわかっているよね。かつての自分が、どんな質問に、どんな答えをするか。質問は現在のものでも、その人間の答えがわかる。たとえ、今の自分と、意見がちがっても、なんていうかはわかっているんだ。

いまの人生で、満足? このまま進んでいきたい?

全てのことに満足する人生なんて、無いとはいいきれないけれど、実現するのはかなりの努力が必要だ、ということは、たぶん本当。努力を払っている時点で、努力や我慢がにがてな人にとっては、すでに損があってプラマイゼロって感じだし。

だから、ぜんぶがぜんぶお気に入りの人生だ、なんて言える日は、来ないかもしれない。それでも、日々の出来事の半分くらいは、まあ、満足か、と思えるかどうかを、わたしに訊いてくる、若い青い私。

満足しているよ、と答えるとでも、思っているのかしら、この子は。

それとも、全然たのしくない。あなたの予想どおりだから、その反骨精神は早めに捨てて、牛後にまわったほうがいい、とアドバイスしてもらいたいの? 小賢しい。

満足している瞬間だって、そりゃあるよ。仕事上がりとか、休日のひとときとか、友人とお酒を飲む晩とか。でも、思っていた以上に、大人はつらくて暗い。独身だけど、完全自由じゃない。これで結婚して子供でもうまれたら、どれだけ自分を削って生きることになるのだろう、と今から戦々恐々としている。

それは、待っていた答えじゃない。

そうに決まっているじゃない。だってあなた、苦労もなにもしてこなかったし。これから先も、数年は安穏と暮らす。安穏としている日々のことを、「安穏としているな」と自覚することができないから、それ以上に安穏とする日々が来ないかぎり、安寧のなかに身を置くことはできない。つまり、一生できない。

気づいていないのだ、自分がどんなに幸福かということに。

「それは、そっくりそのまま言い返すよ」

うん、幸せを感じる感度の問題だよね。いま現在だって、そうなのだ。この忙しい日々が、今以上に余裕をもたない限り、今以上に幸福だと思える日は来ない。

今、この瞬間が、なにより幸福な瞬間である、と思えない限り、人は幸福なんか得られない。「いつかは幸福に恵まれる」と願いつづける限り、そこへたどり着くことはない。亀の6倍の速さで追いかけるウサギが、ウサギの6分の1の速度で進む亀に、金輪際追いつけないように。

人は、どんなものでも失ってきた。健康や、友人や、家族や、故郷や、思い出、物、時間、財産。どんなものでも、だ。失ったものは取り返せない。それを、「失った失った」と言い続けても、それは嘘つきじゃない。

けれど、得ていない人だって、いない。比較すればいるけど。自分は得ていない、と思っている人にかぎって、自分に身があることを忘れてしまっている。

得てばかりいる人とは、かんたんに比較する。そして自分は、得ていないと嘆く。嘘ではない。「得てばかりいる人」というのが幻想だ。得てばかりの人もいなければ、失ってばかりの人もいない。

死ぬ間際になって、ただ歩けること、ただしゃべれることの意義を、知ることになるんだ。

「さて、あなたは今、死ぬ間際じゃない。したがって、失ってばかりの人間でもない。それがわかったら、さっさと眠ればいい。不眠症ですらない。朝日も、あなたからは奪われない。その仕事がつらくとも、その給料を奪われることだってない。すべての事柄は、なにかを与え、同時になにかを与えられている。本当は、どれとどれを交換したのか、よく考えてみることだよ」

かつての私よりは、まあマシな意見を言えるようになったものだ。

小学校のころはとにかく「自分の意見をもちなさい」というのが教育のトレンドだった。自分の意見と問われて答えずにどぎまぎしているクラスメイトをしり目に、私は、自分の意見がないことなんか一瞬だってない、と信じていた。

その意見があることで、周囲と対立したり、自分の思うとおりにいかずに悩むこともある。ただ、自分の意見がなくなったら自分の人生もないと思って、今も、よりよい世界の正しさを求めつづけている。

そこだけは、反骨精神ゆたかなその女子高生に、胸を張って言える。そこだけは。人生はつらいと楽しいの二項対立で見がち。でも、ほんとうに価値のある人生は、その判断基準とはちがう。自分に嘘をつかないで、過去のただしい自分に白い眼で見られずに、胸をはって生きられるかどうかで決まる。



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