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懐古を続けても苦しみは増すばかり

僕がいま住んでいる石川県は加賀市、実は日本有数の温泉街です。温泉旅が好きな人はご存じかもしれませんね。そんな土地で生まれ育ったものですから、温泉がとても卑近な存在なのです。大学受験の勉強に励んでいた頃、一息つくと親がよく温泉に連れて行ってくれたものです。今思えばずいぶんと贅沢な話だ。

当時はもちろん親に車を運転してもらっていたけれど、いまは自分で自分の車を運転して温泉に行っています。ウーン、エモイ。足繁く通っているのは、地元でも知る人ぞ知る穴場な温泉だ。ワンコインで日帰り入浴ができて、しかもほぼ貸し切り。都内のやや大きめなコンビニ並の広さがある内湯に加え、打たせ湯や露天風呂も完備。これは通わないわけにはいきません。この温泉そのものが気に入っていて通っているわけですが、同時に、昔を懐かしむ気持ちで哀愁を捕らえに行っている節もある。

誤解を恐れずに言うと、僕はいまの自分の生活にさほど充実感がない。じゅうぶんな衣食住が保証され、公衆衛生や交通インフラの整備が行き届いた治安よき日本で暮らしているくせに、一体何を言っているんだ、という話です。そりゃあ日本で生活できていることには感謝しています。僕は日本も日本語も大好きですから。けれど、それと個人的な充足感はまた別なのだ。

学生時代は毎年学年というステージが上がっていくし、常にテストや部活の試合など目の前に目標が据えられている。これは自分が何をするわけでなくとも、遍く少年少女らへ半ば自動的に設定される目標だ。けれど、ひとたび就職という1つのゴールを潜り抜けると、これまでのような目先の目標やライフイベントは激減する。せいぜい結婚とか会社での出世とかだろうか。前向きに考えると、資格取得でも起業でも自分で自由に目標を設定できるのだから、むしろワクワクしそうなものだ。けれど、子どもの頃に比べるとなまじ現実を知ってしまっているがゆえ、「どうせ」から始まるネガティブな思考が努力を阻害するのだ。子どもというのは、無知、未熟ゆえに無理難題にも果敢に挑んでいくところもある。

目標がない。ただ漫然と日々を過ごしている。刺激がほしいが、年々感受性は乏しくなり、刺激への感度も鈍る。せっかく”イイモノ”に触れる機会があっても、さほど心が動かない。かなしい。そうなると、今や未来に対して諦観を抱くようになる。もうこの世に自分が面白いと感じるものは無いし、今後もおそらく現れないのだろう、と。こうなると、かつての感動体験にすがるだけの懐古主義者のできあがりだ。僕は十数年前に通った温泉に足を運び、湯船に浸かりながらあの頃を思い出す。さまざまな思い出が走馬灯のように蘇ってきて感傷に浸る。

ところが、事態は一変した。変化というのは何の前触れもなく突然訪れるものだ。今日もいつものように温泉へ行ったのだが、なんと脱衣所と浴場が改装されていた。真新しく和モダンなその見た目には、思わず「おぉ」と声が出てしまうほどであったが、驚きと悲しさが混在していた。これほど大がかりな改装工事を行えるほどに経済的な余裕はあったのでしょうから、穴場とはいえ当面潰れることはないのだろうと一安心。けれど、僕の青春時代が詰まった空間が消滅した。胸がきゅっと締まった。

過去の思い出に自分の居場所を見出したところで、かくも容易く消え去るものだ。それに、過去の居場所など減ることはあっても増えることはない。ジリ貧だ。であれば、こんなことを続けていても苦しい思いをするだけではないか。となると、僕も現実という激戦下に一歩を踏み出し、今や未来に居場所を見つけなければならないのかもしれません。

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