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書評【市川沙央〈ハンチバック〉再読】



 本日、障害者の安楽死問題に関わるニュースを観ていて、以前、読んだ市川沙央の芥川賞受賞作 〈ハンチバック〉を再読してみた。ひょっとしたら読み違えているかと危惧したからだ。だが、再読しても根底的な部分でのわたしの感じ方や考えは、以下に再掲する〔   〕内の短評を揺るがすものはどこにもなかった。

文学作品の評価の原則は、ただ1つだ。それはどんな政治的、社会的な価値観をも退けた地点でなされるもので、これは作家本人の置かれた個人的な事情や状況も、なんら斟酌されるものではない、ということである。この極めて独立した評価の軸がぶれたら、文学作品を正当に評価できなくなる、だけでなく、強いては個人の思想も生きる場所がなくなる怖れさえ生じかねないと言って良いだろう。

 そういう意味で〈ハンチバック〉という作品は、市川氏の極めて不利な個人的な状況の中から、力強く生まれでてきた確固とした文学作品と言ってよい。唯一の危惧は、次作をどのような世界に展開していくか、ということの不透明性が指し示す困難ではないだろうか。文学の価値に健常も障害も無縁だということは、自明だとしても、この一点においてわたしも作者に一読者としてのエールを送らざるを得ないのである。


 [久しぶりに芥川賞受賞作品を読んだ。

率直に言わせてもらうとあまり面白くなかった。

なぜこの作品が芥川賞なのか?という疑問がわいたが、これだけの名だたる書き手が読み手として推しているのだから、他の作品が、この作品以下ということなのだろうか?

 重度の障害を持った女性(作者)の日常をsexという側面から事実とフィクションを織り混ぜて切り取っている。そこには、健常者への呪詛と決して改善されることのない自己の肉体の遺伝子的の欠陥からくる苦痛やまたそれを背景にした鬱屈がある。文章は、技術的に書き慣れている印象で、非常にうまい。実際に軽重はあっても作者は、エログロ記事をどこかに書いているのかもしれない。文学の世界にバリアフリーを?障害者が哀れまれるだけの存在ではないことを証明しようとした?〈健常者よ、いい気になるなよ。〉作者の小説中の言説には、充分な毒が含まれているが、彼女の書く世界は、小さな世界に限定され、閉ざされていて、良い作品が持つイノセントに読み手の心をつきぬけてくるなにかが、欠けているのだ。だが、これは作家としての年季や力量や資質や、置かれている状況も違えど、村上春樹の「騎士団長殺し」を読んだときにも感じた現在のあらゆる〈作品〉に共通したつらい読後感でもあるから、必ずしもこの作品だけの問題ではないのかもしれない。そして、ではどこに現実世界と交通できているクリエイターがいるのかと、誰かに突っ込まれれば、即答できる材料を持っているわけでもない。

 ところでこの作品の最後にでてくる健康な女性の性的な生活描写として描かれた作品の転調は、わたしには必然の落ちとみえた。それはこれまでの障害者としての、彼女の日常の物語の破調には違いないが、ひょっとしたらこの転調から作者は、新しいどこかに出ていけるのかもしれないのだ。

 今の社会の趨勢は社会的弱者の立場の擁護に腐心するという、極めて端的な傾向を持っている。

だが、文学の評価は、少なくともその手のある意味社会政策的な(政治的な)傾向とは関わりないものなのではないだろうか。

 最後に作品内ではないが、わたしの胸に染みた彼女の素敵な言葉を紹介してこの項を閉じたい。

「・・・わがままな子どものように何度も何度も叫ぶ。わたしは小説家になりたいと思ったことなどない、と。白い馬が首をかしげるが、無視して叫ぶ。明日も書けるかどうかわからない、と。

 それでも白い馬は砂漠の中央を歩いていく。太陽が語りかけてくるから、次の言葉を探さなきゃならない。」   〈受賞のことば〉より。


  この言やよし、である。]

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