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短編小説 「坂祝の風に乗せて」


アマネは東京から逃れるように、岐阜県の小さな町、坂祝に足を運んだ。無人駅を降りると、町には静けさが漂っていた。緑豊かな山々、小川のせせらぎ、町並みが彼女を迎えてくれる。目的は明確で、この町の自然と歴史に包まれ、失恋の痛みから逃れる独り時間を得ること。そんな癒しを求めて、アマネは坂祝駅から猿啄城展望台に足を運ぶ決断をした。

地図で見ていたよりも、標高265mの展望台までの道のりは遙かに厳しいものだった。小道が続き、所々に立ちはだかる急な階段。息を切らしながら、アマネは一歩一歩進んでいく。汗が額から落ち、土の匂いと木々の緑が目に飛び込む。この一歩一歩が、失恋から立ち直る新たなスタートに繋がると信じていた。

「こんなにも遠く感じる登りは、きっと私が失恋したからだよね」と自嘲気味に呟くアマネ。しかし、その言葉は山から吹き降ろす風によってすぐに持っていかれた。風は彼女の髪をなびかせ、顔に当たる涼しさが心地よく感じさせる。その風が高く、遠くへと彼女の言葉を運んでいくようだった。


一時間が経ち、ついにアマネは猿啄城展望台に足を踏み入れた。息を切らして、汗でべとべとになってはいたが、その前に広がる壮大な景色に目を丸くした。遠くには緑豊かな山々が連なり、その向こうには町が小さく広がっている。木々のざわめきが彼女の心を優しく包み込む。

手にしたスマホで、その一瞬をパシャリと収めた。画面上には絶景が写し出されていた。しかし、この瞬間を共有したかった別の写真があった。それは、2年間隣にいた彼との共に過ごした時の写真。だが今は、その相手はもういない。

「さて、新しい人生のスタートだ」と心に誓い、アマネは下山への道を歩き始めた。途中で出会った恋人たちや家族を見ても、心の中にはもはや波立つものはなかった。空に昇っていく太陽の光が彼女の顔に温かく照らし、それは新しい始まりの予感とも重なった。

坂祝での短いが深い旅が終わり、アマネは東京への帰路についた。

バスの窓から見える風景は相変わらずの田園と山々だったが、その一つ一つに新たな意味を見出していた。夕焼けが空をオレンジと紫に染め上げる中、バスは高速道路を走っていく。その景色は美しいが、彼女自身の心の変化にも気づき始めていた。

失恋は確かに残酷だが、その辛さを乗り越えた先には新たな道が広がっている。かつては失恋の重荷に押しつぶされそうだったが、今はその重さを何か新しいものへと形変える力が芽生えてきたように。

スマホの画面に映る坂祝での写真を眺めながら、アマネはこれからの日々で自分自身と向き合い、新たな何かを見つけ出す覚悟を固く決めた。

バスが都会の灯りへと近づくにつれ、彼女の心も明るく照らされる未来へと一歩を踏み出したのだった。

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