祖母のぬか漬け

明治生まれの祖母は、昔の人らしく、お彼岸にはおはぎやらいなり寿司やら大量に作っていた。
お正月も、今年の黒豆はやれ、シワが寄ったのだの、甘過ぎただの、叔母や母らとやいのやいのやっていた。
ところがふだんのご飯に関しては、昔の人らしくなく、料理をしていた記憶があまりない。

祖母は東京の下町の外れに、独り身に戻った叔父と二人で住んでいた。
小学生だった私が遊びに行ったときは、たいてい商店街の肉屋で買ったメンチを夕食にしていた。人が集まるときには、明るくて愛すべき威張りんぼの祖母のまわりにはよく人が集まるのだけど、いつも近所の中華屋からチャーハンやら肉団子やらをとっていた。
祖母はその中華屋の電話番号をそらで覚えていて、店に電話をかける時には、
「あたしだけど」
と、なんとも迷惑な名乗りで注文するのだが、毎回きちんと料理は届けられた。

そんな祖母であったが、食卓にはいつも自家製のぬか漬けが並んでいた。
祖母の家の階段下の物入れには、小さな家にはそぐわないほど大きな、小さな子供ならすっぽり入ってしまいそうに大きな漬物樽があり、かなりの存在感を発していた。大きさだけでなく匂いも強烈で、家全体がこのぬか床と線香の混じった独特の匂いで満たされていた。
ぬか漬けは、食事の時だけでなくお茶請けにも供され、なんだかんだといつもちゃぶ台の上には、皿に盛られた漬物があった気がする。
いざその漬物を口にしてみると、祖母のぬか漬けには、野菜の瑞々しさと爽やかな酸っぱさ、そして何より深い旨みがあり、誰もが絶賛するのだった。
不思議なことに、そのままで十分美味しいのに、祖母は漬物を皿に盛ると頓着なくサラサラと白い粉をかけていた。祖母によると、この”魔法の粉”はとにかく何でも美味しくするとのことだった。私は大人たちの隙間に座り、漬物の上でキラキラ光るその”魔法の粉”の小さな粒を、興味深く眺めていたことを覚えている。

私が20歳を過ぎた頃、転んで入院をしたまま祖母は亡くなった。100歳を超しても死にそうにない、とみんなに言われていた祖母が、米寿を前にあっさりいなくなってしまった。

祖母のぬか床は、母の姉、つまり私の叔母に引き継がれた。

叔母は、新小岩でスナックのママをしている。ぬか漬けは、毎日のようにお店で出されているらしい。たまに遊びに行くと、いつもぬか床から出したてのキュウリを切ってくれる。叔母のぬか漬けも旨味がたっぷりですごく美味しい。ただ、やはり祖母のものとはどこかが違う。あの得体の知れないものが入っていそうな大きな樽が醸し出す独特の何かが欠けている気がする。なんというか、もっと綺麗な味なのだ。恐らく、祖母の家にあった頃よりまめに手入れされ、野菜の入れ替わりも頻繁で、きっとぬか床が随分と若返ったのだと思う。どちらが美味しいかと言われれば、叔母のものの方が美味しいと思うが、祖母のぬか漬けの独特の味が恋しい。

学校を出て会社に勤め、一人暮らしを始めた頃、何を思ったのか、私は叔母にぬか床を分けてもらった。仕事は忙しくて不規則で、朝ごはんもろくに食べず、毎日飲み歩くような生活だというのに。
パチンコ好きな叔母は、鉄くぎの代わりにパチンコ玉をぬか床に入れていた。分けてもらったぬか床にもパチンコ玉はいくつも入っていた。
自炊なんてほとんどしないのに、ぬか床は毎日かき混ぜないとダメになってしまうという強迫観念で、毎日のように野菜を漬けていた。慣れない土地、慣れない仕事でいっぱいいっぱいになっていたが、ぬか床の中からひょっこり顔を出したパチンコ玉に出会うと、ふと心が緩むのだった。

それから何度も引越しをしたが、ぬか床は律儀に毎度持っていった。毎日かき回すのはもちろん、昆布やらみかんの皮やらを入れたり、有機だとかいう生ぬかを炒ってみたり、それなりに手間をかけているつもりなのに、祖母の味は言うに及ばず、叔母の味にも全く近づけず、何年経っても私のぬか漬けはなんとも物足りない味だった。

そのうち私には子供が生まれ、仕事と育児に追われる中、いろいろなことが今まで通りにできなくなった。たくさんの”ねばならぬ”と思っていたことも、現実的にできなくなった。その中の一つ、毎日ぬか床をかき混ぜる、もある日、できなかった。そういうことが何度も重なり、できない日が何日も積み重なり、とうとう私のぬか床は、冷蔵庫に入れっぱなしで、たまに食べたい日の前日だけ、野菜を入れてかき混ぜるもの、になった。長いと1ヶ月くらい放ったらかしになっている。
ところが不思議なことに、ぬか漬けが美味しくなってきたのである。
お客さんがきた時に、祖母の家ほどではないけれど我が家も割とお客さんがよく来るのだが、いくつも料理を出した中で、たいてい一番褒められるのはぬか漬けである。野菜嫌いの娘も、なぜかぬか漬けのキュウリは大好物でよく食べる。

特にぬか漬けというものに関しては、巷で言われていることと反するため、決して万人に通づることではないと断っておくが、私はこのぬか床から、手をかけ過ぎる事なくいい塩梅、というのが非常に大切であるとの教訓を得た。それにしても、そのいい塩梅、がまさかのぬか床1ヶ月放置、とは驚きである。
きっと、毎日義務感でかき混ぜられても、ぬか床の中の菌たちはちっとものびのびできなかったんだろうと思う。有機とか添加物とか、規則正しくとか、愛情たっぷりとか、そんなこんなでカチカチにならずに、いいかげんがよい加減。

そういえば、祖母のぬか漬けについて母と話した時、あの大きな祖母の樽では、いい加減な祖母が表面をちょこっとしかかき混ぜなかったため、母達が子供だった時代には悪くなったり、虫がわいて兄弟達がぶつくさ言いながら始末したりしたこともあったと聞いた気がする。さらにさらに思い返すと、関東大震災の時に、祖母は火を逃れて隅田川に飛び込んだ、なんて話をしていたから、あのぬか床は関東大震災も東京大空襲もくぐり抜けて生き残ってきたということにも気づく。
あのぬか漬けのなんとも滋味深い味は、大らかで暖かい祖母の手の中で、数々の危機を乗り越えて鍛えられ、育てられてできたものなのだ。
マンション住まいで冷蔵庫育ちの私のぬか床だけれど、こだわり過ぎず、私なりのいい塩梅で、細々とでも美味しく育って欲しいと願う。あの祖母のぬか床の子孫なのだから、その素質は十分あるはずである。

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