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嫌われる勇気

はい、アルフレッド・アドラーの有名な本ですね。
10年くらい前に友達がこの本を読んですごい納得した。と言っていたので、アドラーの本を2冊ほど読んでみたことがある。
読んでみたその当時の感想は、「すごい当たり前のことが書いてあるな~」でした。
すごい上から目線(笑)
でも当時の私は、この本に書いてあることは全部当たり前だし、全部知ってることだな。としか本当に思っていなかった。

その後、働いている時に何回か人種差別的なことを言われることがあった。接客業をしていた頃、日々色んな人に接していたし、サービス業をしている人なら分かると思うが、ムカつくお客さんなんてたくさんいる。
でも、話すらする前にシャットダウンされて、話すことを拒否されるというのは精神的に結構きつかった。
同僚は「Don't take it personal」(お前自身のことを言ってるわけじゃないから気にすんな的なこと)と言ってくれたりしたし、見ていた他のお客さんからも「あいつムカつくね、超失礼!」とかも言ってくれた。でも、一度だけではなかったということもあってか、私という人間自身、私という存在が頭っから否定された気持ちになり、傷ついた心はうまく修復できなかった。

やっぱり、話もしてないのに一方的に嫌われるのは正直つらい。
私がアジア人だから。
私の英語はアクセントがあるから。
それって、私のアイデンティティーだよね。


ここでもっと昔に遡って話をする。
幼少期の私は、怒りという感情が嫌いでしょうがなかった。
怒りという感情は自分自身を嫌な気持ちにさせるし、誰かにその気持ちをぶつけてしまって、誰かの心を傷つけてしまうのが嫌だった。
そういう性格もあいまってか、一度だけ友達から「八方美人」と言われたことがある。
その時のことは今でも覚えているので、今となっては遠い記憶だが、相当ショックだったのだろう。
その友達がみんなに優しい私に対して嫉妬をしたのかもしれないし、本当に私の言動は八方美人的だったのかもしれない。
まあ事実というのは分からない。
とにかく、私のモットーはずっと「人に優しく、自分には厳しく」だった。
(途中から「人に優しく、自分にも優しく」に変わるのだが)

八方美人と言われるぐらい(苦笑)「人に優しく」してきたためか、人に好かれる自信が心のどこかにあった。
人に嫌われない自信が、無意識的にあった。
「自分はいい人間だ」という自負があったのだ。

ここで最初のアドラーの本に戻る。
本の内容を「全部知ってることだ」と思い、「全員に好かれるなんて無理に決まってるじゃん。そんなの分かってるよ」と言いながらも、心の奥底では「自分は嫌われない」と思っていたのだ。
なんたる矛盾だろう。

そんな自分が頭ごなしに否定されて、初めて気がついた。
「嫌われる勇気」について本当は分かってなかったし、そんなもの持ってもいなかった。


要約してここまで書いてきたが、実際には長い時間をかけて、ずっと悩んでずっと考え続けて気がついたことである。


最近になってようやく、「嫌われてもいい」と心の底から思えるようになった。
本当に嫌われる経験をしないと、なかなかこの考えを受け入れることはできないのかもしれない。
私にヒドイことを言ってきた人に対しても、「過去に何か嫌な思いをしたのかな」とか、「それなりの理由があったのかもしれない」と、傷つけてきた人のバックグラウンドを思うことまで出来るようになった。
(理由があったのかなと思うだけで、同情まではしない)

そして改めて思う。
周りにいる大切な友達や家族の尊さを。

私には彼らがいるから大丈夫だと思える。

ふむ。つらい経験をしなくても、すでに周りにいる人たちに感謝して慈しむ気持ちがあったら「嫌われてもいい」と強くなれるかもしれないな。

後もう一つ言うなら、「傷つけてくるようなやつらを相手にしない勇気」も、私には必要だったのだと思う。
「人に優しく」はもっともなことだ。
でも、そんなやつらにまで優しくしなくてもいい。
そんなやつらは相手にしない。無視していい。
心の中で「F*** you! Good bye!」って中指突き立てて、立ち去るくらいでいい(笑)


~おまけ~
優しすぎて人を許してしまったり、相手に強く言えない人がいたら聞いてほしい。
「あなたは強い。大丈夫。傷つけてくるようなやつらは相手にしてなくていい。誰と仲良くするか、話をするかはあなたの自由。あなたが選んでいいんだよ」
これは、人を選ぶなんておこがましいとさえ思っていた過去の私にも言ってあげたい言葉。


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