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「しょうがない。」の領域を増やせ。

年の離れた友人・知人。

色んな場所でヨガレッスンをしていると、様々な世代の方とお話をすることになる。世代に限らず、性別、職業、出身地、未婚・既婚、子供や孫や恋人がいる・いない…属性は様々だ。
さらに、お話し好きであったり、そうでなかったり、とても丁寧だったり、失礼だったり…等々パーソナリティも合わせると千差万別である。
共通点は多少なりとも「ヨガに興味がある」ということだろうか。

同世代(といっても、正直3-4つ歳が離れると、微妙な世代間の差が出てくるので面白い。)の方とは理解しあえる部分もあり、頑張っている姿をみると「自分も何とか生きていこう。」励まされることも多い。

年下となると10代、20代の方で、最も若くて中学生くらいだ。
小学生でも中学生でも、「~ちゃん」呼び・タメ口などと子供扱いしないと決めている。私には子供がいないが、それでも小学生・中学生のときの自分は未熟なりとももう十分に自分の頭で色々なことを考えていて、過剰な子供扱いは不快だったと記憶しているからだ。
彼女たちを見ていると、あまりに奔放だったり、その反面とても慎重だったりする様子が、何につけ眩しく愛らしい。


前置きが長くなったが、

今回は年上の方のお話。
現状レッスンには80代の方まで来られる。
私の祖父は昨年93歳で亡くなり、祖母は昨年90歳を迎えた。
うんと年上の人の話は、とても面白い。
戦争を経験していたり、その後の貧しい日本を見てきたり、高度経済成長が青天井だというバブル状態を謳歌していたり、その後のハジケた状態で苦労をしていたり…そういった時代のうねりは、多かれ少なかれ価値判断や胆力、人格に影響を及ぼしているように感じられる。

すこし前に60代・女性の知人Qさんとお茶をしていた。駅ナカのコーヒースタンド。
私はほぼ聴き役で、すべての物事のあらましを順々に説明しなくては成立しないと信じ込んでいる彼女は、一から百まできっちり話してくれる。
(大体世の中の半分くらいの人には「かいつまんでくれないかな。」と思われるタイプだと察する。)


職場における世代間の対立。

当時のQさんの職場は10‐20人の女性が働くチームで、彼女はそこの総責任者だったらしい。
いわゆる管理職、というやつだ。
当時50歳そこそこの彼女は、仕事を覚えたての20代も、人生の先輩である50-60代も、部下としてまとめる立場にあった。

良い人ばかりだったが、世代間の格差というものはあり、生真面目でお堅い50代後半のCさんと、働き盛り20-30代の若手数人に確執のようなものが生まれていることに気づいた。
Cさんはとても真面目でカッチンな人で、自分の仕事の領分はここまでと割り切り、残業をすることもない、というスタイルを確立していた。
若手からすると、チームであり皆譲り合いながら働いているのだから、もっと協力してほしい、というところだろうか。
Qさんは諸々の調整を図りつつも、どちらの言い分も理解できるので、しばらく様子を見ることにした。

ここまで聞くと、若手チームの憤りというか不満のようなものに、強く共感してしまう。若い時分というのは、過度に年長者に期待してしまうところがある。「偉そうにするのなら、ちゃんと尊敬させてくださいよ先輩。」ということだ。

確執は次第にエスカレートして、若手チームはCさんに対する敵意を態度で示すようになってきた。休憩室にCさんが入ってきたら、それまで小鳥のように興じていたおしゃべりをピタリ、と止めたりするのだそうだ。
流石のCさんも、明らかに嫌われているのを感じ取り、意気消沈してしまった。


「しょうがない。」の領域を増やせ。

この場面を見たQさんは、若手チームにはっきりと伝えたらしい。
「あなたたちの気持ちはわかる。
けれど、これ以上のことを私は許さない。
文句があるなら、会議の場で発言して。
仲良くしろとは言わないが、
真面目に働き続けてきたひとへ、
最低限の敬意を尽くしなさい。」
といような旨のことを。

ここまで語り終えたQさんは、
「キミタチもっと、『しょうがない』の領域を増やさんかいって思ったんだよね。」と、私の横でコーヒーを啜った。

うわぁ、すごいな。
人の上に立つひとだ。
というのが私の率直な感想だった。

今の時代、人をきちんと𠮟れる人は意外と少ない。
若手チームのささやかな攻撃は、放置すれば人としての矩を踰えるものになっていたかもしれない。
彼女たちは、前々回のnoteで綴ったナチュラルボーン小悪党なわけではないのだ。ただ、不満を募らせ、闇落ち小悪党になってしまう可能性はあっただろう。若手チームは、Qさんの言葉で闇落ちリスクを回避できた、とも見てとれる。


たいていのことは「しょうがない。」

私自身にも耳の痛い話であった。
自分自身の「しょうがない。」の領域を増やせずに、どれだけの人を追い詰めたことがあったのだろう、と振り返る。
同時に自分のことも。

人にはそれぞれの価値観があり、各々の正義がある。
どれだけ改善を繰り返しても、社会は私たちが生きるに最適に作られているわけではない。
傷つけることも、傷つけられることもある。

それでも明日を生きるためには、たいていのことは「しょうがない。」で済ますしかないのである。
そして、私たちが何とか生きていけるのも、誰かの「しょうがない。」に助けられているからだったりする。

さて、
数少ない私の話のターンになったときには、隣のQさんはぼんやりと口を開けて「へぇ~……そうなの…」と気のない相槌。
さっそく私も、「しょうがない。」の領域を増やすとしますか。


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