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自分の体とセーラー服を受け入れられなかった学生時代、性について悩み倒した日々のこと。

 

 最近取り上げられている話題であるが、最近の学校では「制服の男女統一」や「体の性に関わらない選択式の制服」が導入されてきている。
セクシャルマイノリティの生徒のみならず全ての生徒に選択肢が与えられることは、思春期の子供達が自分自身を肯定することができる。とてもいい傾向にあると思う。

この動きに関するニュースを見たり新聞記事を読むとき、私は過去の自分が抱いていた不安や苦悩を思い出して涙が出てくることがある。

私は中高時代の6年間スカートをはき、女子制服で過ごした。しかし、私は女子用の制服を着たくなかった。このことを6年の間で家族にも友人にも先生にも打ち明けたことは一切なかった。私は中高生時代、自分の制服姿に違和感と嫌悪感を抱きながら毎日を過ごした。
今年から大学生になった。もう制服を着る必要はなくなったが、自分らしく制服を選択できる学生時代を過ごしたかったと今でも強く強く思っている。
学生時代にありのままの自分で過ごすことができなかったこの喪失感はきっと今後何年たっても消化できない気がする。


私の中学時代の話になる。

 中学校入学を目前にした小学6年生のある日。採寸に行く、と母に言われて連れていかれた制服店。しばらくして店員さんによって、私にいくつかのサイズのスカートとブラウスがあてがわれた。「これとこれ(くらいのサイズ)かなあ。着てみて?」

私は店員さんから渡された制服をもって試着室で着替えた。しかし、スカートのホックを締めているとき、「自分はなんでスカートなんだろうか」とおもったのを覚えている。そして、鏡に映った自分の姿はあまりにもショッキングだった。

鏡に映る私はあまりにも「女の子」、「少女」だった。

しばらく見るうちに、余計に自分ではないように思えて、不格好にも見えてきて、漠然と「こうじゃない」と思った。みせて、と言う母の声に、素直にカーテンを開けられなかった。

当時の私にとって、あれほどありありと自分自身を「女性」だと認識させられた経験は初めてだった。「女子学生」という記号が自分につけられたことがあまりにもショックだった。

小学6年生の私は、鏡に映る「女性的な」自分の姿と喜ぶ母の姿を前に、その心境を言葉にできるほど賢くはなかった。口に出す勇気もなかった。そのまま何もできず、自分でも自分が理解できないまま、数週間後に家にセーラー服が届いた。

入学式前日の夜。明日から私はあの制服を着るんだと思うとどうしようもなく憂鬱で、しかし当時の自分は何故受け入れられないのか、その理由を明確に言葉にできなかった。
ただ、なぜ自分はスカートなのか、ズボンで通えないのはなぜか、今からでも制服を変えられないのか、という疑問だけが頭の中をぐるぐると回っていた。
幼かった私は布団の中で涙を流すことしかできなかった。


入学後は制服に対する違和感と嫌悪感を抱きながら、それをうまく言葉にすることもできずに過ごした。周りの同級生が制服をすんなり受け入れていたこともあり、これは普通は抱くはずのない違和感で、それを感じる自分はおかしいのだと考えるようになった。周りにばれないように、自分の中に閉じ込めて過ごすことにした。

そんな日々の中で、思春期だったの私にも体の変化はやってきた。早生まれで同級生より体格も小さかった私は余計に自分の体が成熟することが現実的に思えず、自分には訪れるはずないだろうという自信を持っていた。が、そんなはずはなかった。

どうしても受け入れられなかった。体と心が徐々に乖離していく。制服を初めて着たときと同じ違和感を、自分の身体にも抱くようになった。制服と体は女性という記号を強く自分に押し付けてくる。

気持ち悪かった。
自分のことも、日々自分を女子として扱う学校も友達も全部が気持ち悪かった。

まるで制服が元から持っていたその曲線に沿うように、そこに馴染むように、体は変化していく。私は自分を受け入れられなくなった。眠らなければ体は成長しないんじゃないかというメチャクチャな考えを思いつき、眠ることも受け入れられなくなった。

しかし、それでも私はこの気持ちを誰かに打ち明けることができなかった。

それは自分が自分自身のことを女性だと思えない一方で見た目は明らかに女性であり、そんな自分に自信が持てなかったから。また、男性になりたいわけではなかったから。性自認がはっきりしていないふわふわとした状態で周りを説得する勇気はなかった。否定されることが怖かった。

自分の周りにそのような人間を見つけられず、ネットやSNSにもほとんど触れる機会がなかった当時の私は、自分のこの状態を「普通でない」としか思えなかった。「普通じゃない自分」を矯正しなければ周りに受け入れられないのではないかと思いつめた。


高校生になると、入学と同時に手に入れたスマートフォンでやみくもに検索を続けた。この心と体の違和感の正体を突き止めたかった。

「胸 いらない」「女じゃない 性別が分からない」「女性だと思われたくない」「男になりたいわけではない 女」「性同一性障害」「自分の身体が受け入れられない」…

女性と思えない自分自身が何者なのか、知りたくてたまらなかった。きっと自分に当てはまるカテゴリーを求めて安心したかったんだと思う。
自分はひとりじゃないと思いたかった。これからどうやって生きていけばいいのか、まったく想像できなかった。

そんななかで「Xジェンダー」「ノンバイナリー」という言葉に出会った。
高校の勉強などそっちのけで、毎日毎日そのことばかりを調べていた。やっと自分の居場所を見つけた気がした。

「Xジェンダー」「ノンバイナリー」という言葉に出会うまでに、トランスジェンダー についての記事にも沢山目を通した。そこでトランスジェンダー の方が実際に男子用制服や学校用ジャージで生活している人がいるという記事に出会った。しかし彼らは制服変更の過程でカウンセリングを受けたり、親や先生との面談を繰り返していた。しかし制服変更についての記事はトランスジェンダーの例しかなく、トランスジェンダーではない自分の制服変更なんて認められるはずない、と私は思った。

私の場合の制服変更のハードルとして、

・親・先生へのカミングアウトの必要

・性自認が不定性であったこと

・周囲の目

などが挙げられる。思春期の私にとってはかなり厳しいものばかりだった。

特に私にとって親へのカミングアウトは大きな壁だった。
幼い頃から母がそのような存在を嫌悪する様子を見てきた私にとって、母の嫌悪の対象に自分が入ることがとても恐ろしかった。


毎晩のように悩んだ。何も言わなくてもズボンを穿ける男子生徒が羨ましかった。自分の身体と心が一致している周りの友達が羨ましかった。ありたい性のままで過ごしている皆が羨ましかった。同級生が勉強や部活動に勤しむ中、私はそもそもこの社会において生きる前提が整っていないと真剣に思った。

朝に、いつもよりもスカートが嫌に思え、いっそのこと登校までに汚して着られなくしてしまって、ジャージで行ってしまおうかと考えた日は数えきれないほどあった。

しかし、私は行動に移す勇気もなくずるずると悩み続け、結局高校卒業までスカートを穿き続けた。スカートを穿き、どう見ても「女子生徒」な自分の姿で6年間を過ごした。

高校を卒業したとき、やっと終わったと思った。

苦しかった。

ありのままでない自分が笑っているアルバムも、あまり見たくない。


私の6年間にとって、制服は「着る足枷」だった。



思春期の敏感な時期に制服に悩む生徒はきっと数多くいる。多感な時期に、制服の力はあまりにも強力だ。

私とって、制服は生まれて初めて自身に投影される「社会の目」だった。強要される「社会的な性」だった。


制服を導入している学校が多い中で選択式や男女統一の制服の導入はきっと多くの子供たちの心を救う。もっともっと沢山の子供たちの生き方や価値観が制服に縛られることがないように、どうかこの動きが広まってほしい。マイノリティの人間が自分が何者かを証明しなくても、ありのままでいられる社会であってほしい。


そして、昔の私のようなあなたへ。
私の文章を読んで、どうかその不安や悩みはあなただけのものじゃないと知ってほしい。私たちは確かにここにいると思えてほしい。
社会はまだ体の性と心の性を区別して考えることに慣れていないけど、きっと考えは徐々に変わっているはず。私も微力ながらネットで声を上げたりしてます。社会の変化を信じて。自分を否定しないで。

ネットを見ていると、どうしても自分の現状を変える為にはカミングアウトが必要に思えてくるんじゃないかと思います。でも、それはあなたの環境や大切な人との関係をよく考えてからにしてもいいんじゃないかなと思います。
もちろんカミングアウトという行動で周囲も状況も大きく変わると思うけど、絶対するべきものってわけじゃない。

自分の気持ちが一番楽になるように。


どうか伝わりますように。










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