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#48 譲れているか、というモノサシ

自分の調子をはかるモノサシがある。

混んでいる電車で、立つことを選べているか。
エスカレーターで乗り合わせそうなとき、先を譲れているか。
会話の中で、相手の話を先に聴けているか。

そっと、胸に手を当てて確かめる。
自分のためだけの、おまじないのようなもの。


***


「もっと余裕を持って」
ずっと言われてきたことだった。

何かに夢中になると、まわりが見えなくなる。自分のことも見えなくなるから、無理をしていることに気づかない。

日々、HPを使い果たして眠る。だんだんと、いつ眠ったのかいつ起きたのか分からなくなって、地続きのような数ヶ月が経ち。

ある日突然(と私は感じる)、起き上がれなくなる。

そこからの日々は、ツラい。
それまで隠せていた疲れや苦しみが、一気に主張しだす。支配しだす。
”みんな”に迷惑をかけてしまっているという過度な思い込み、申し訳なさと情けなさ。どんどん押しつぶされて。

感情が消えていく。
綺麗とか美味しいとか、面白いとか好きとか、そういう生きる熱のような感情が、まるで知らなかったかのようにすうっといなくなる。

もう、こうなりたくない。毎回おもう。

でも、声をかけてくれるひとはいるのに、誰のアドバイスも、やりきれたことがなかった。
どこかで、こうしないとバランスが取れないと感じていたからだとおもう。まっとうに、波風立てずに生きることは、無理をすることだったから。


***


転機は一年前。いい加減これじゃもったいない、と強くおもった。

誰か任せだったことを、誰かのせいにして立ち上がってきたことを、自分でコントロールしたい。だって、私の人生なんだから。

無理せず分かりやすく、日々の中でチェックできないか。それで発見したのが「譲れているか」というモノサシ。余裕がなくなって心が狭くなっている指標になるとおもった。

いろいろなことがあったこの春から夏にかけて、いつもより落ち着いているなあと感じる。
でもやっぱり、何かあると過去の辛い日々に戻ってしまうのではないかという怖さは常にあって。

まだまだ脆くて頑なな心と、もっと仲良くなっていきたい。愛していきたい。
そして、似たような儚さを抱えたひとの隣に立てる人でありたい。


photo by 写ルンです│
自粛中に撮った近所の写真のはずなのに、どこの空なのかまったく思い出せない。こんな青空を見上げたい気分なんだ。いったいどこに行けばよいのだろう。

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