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高度成長期の下町生まれが里山の自然農にたどり着くまで 1・東京で

自己紹介

私は神奈川の相模湖という里山で自然農「すどう農園」を主宰しています。
都心から西に一直線。関東平野の果てに霊峰・高尾山があり、それを乗り越えたところが相模湖です。生まれ故郷の東京を出てから30年ほどになります。
今は都会の人の野菜作り・自給菜園に向けて「さとやま農学校」という農業体験の場を主宰しています。それで私自身の農業を始めた経過を訊かれることも多いのです。しかし、詳細にお応えするのはとても時間のかかることです・・・というか無理です。皆さんのお気持ちはよくわかるので、なおさら中途半端に端折って話すことはできませ。とりわけ若い人には時代背景から話さなければいけません。かつては年配の方々の話を聴くのが大好きだったのですが、いま気がつけば話をする側に回っている。それは中身の程度はどうであれ、なにがしかの時代を過ぎてきた一人として義務だと思いますし、振り返って忸怩たることも多々ある。それもこれも含めて、いま自分が営む自然農を語るには、遠景も含めて伝えないといけないのでしょう。いささかの気負いも敢えて抑えたりせずに、徒然と書き連ねていこうと思います。いつもの畑ではゆっくり話せないこと、活字だから言えること、あれもこれもです。自分の来し方の披瀝を通じて少しづつ連載していきます。 

敗戦後20年という遠近法

あなたは、今から半世紀以上前の東京を想像できますか?
荒川区日暮里という下町が私の生まれた街、生まれた時代です。
映画で言えば黒澤明監督の「野良犬」という作品があります。三船敏郎が刑事を主演するものでした。あるいは「復讐するは我にあり」。佐木隆三の原作を映画化した名作です。(舞台は関西ですが)おおむね、あの空気。
「野良犬」をご覧になればわかるように、今よりずっとビルも少ないのは当然ですね。戦争に負けて20年足らず。連合軍の占領下から独立して10年そこそこです。こう書くと、自分がずいぶん昔の人みたいに思えてくるから不思議なものです・・すべては時間の遠近法のなせる業でしょうか。

 東京に空はない、という有名なセリフが「智恵子抄」にありますが、あれはヒドイ。空はあるのです。ただし智恵子さんの故郷・岩手のような広々と清々しい空でなく、いつもどこか鈍色(にびいろ)に垂れこめた空。そもそも関東の空の色は薄くて彩のないものです。成層圏に手が届くような蒼穹の深みは真冬の強風のときくらいでしょう。加えて当時のスモッグがかかった空というのが、今となっては逆に懐かしい故郷の色です。その空の下で眺めた記憶の原風景には高速道路がめぐらされています。わが故郷の原風景は、想い起こす山も川もない代わりに高速道路なのです。いまなお狭い都心を迷走神経のように複雑に絡んで走る首都高速は、翌年(1964)に東京オリンピックを控えての突貫工事だったのでしょう。本当は戦前に開かれるはずだったオリンピックは中止になって、敗戦からほぼ20年を経ての開催でした。たとえばいま2023年から振り返って20年前というのは、つい最近のようですが、バブル崩壊以降の「失われた30年」と言われるほどの薄っぺらさもあるのでしょう。それに対して、あの頃の20年というのは長かった。国全体が濃密な時代だったと思います。

 どこの国にも、人の一生のように旺暮春秋(おうぼしゅんじゅう)の四季があるとしたら、この頃60年代は日本全体が春だったのかもしれません。一度は灰燼に帰した大地に陽炎が立つなかを若緑が萌えてきた季節。ただしその萌芽は、海峡を隔てた朝鮮半島やベトナムで、同じ民族が南北に分かれて殺し合う悲惨な戦争を踏み台にしての春だったわけです。
 これは忘れてはいけないことで、明治以来の近代日本の成長というのは、まずは若い人(生産人口)が増えたことによるチカラがあり、そしてもう一つは外の戦争という呼び水・需要があった。あり余る生産人口(食い扶持)を何とかするためにも、外国での戦争があった。この国の近代を顧みれば、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変と、絶え間なく戦争を奇貨として経済を成長させてきました。どれほど人が死のうとも「戦争は儲かる」ものだったのでしょう。
 実は今だってそうです。裏を返せば、戦後日本の経済成長は、ベトナムでのアメリカの敗北・撤退そしてオイルショックという大きな結節を経て、つまり身近に戦争がなくなったことで実質的にピークアウトしたのだと思います。90年代にバブルが弾けて云々という言説は、その後のエピローグ程度のものでしょう。

ナナメな人たちと世間



 私の生まれ育った日暮里界隈は東京の典型的な下町で、戦争特需のおかげで製造業はエネルギッシュに汗をかいて動き回っていました。町工場はどこも開けっ放しで、盛大に鉄骨を切る音と火花、鉄板を灼き切る匂いが路上にも満ちていました。鉄にも匂いがあるのをご存じですか?「春は鉄までが匂った」という小関智弘さんの名作のルポルタージュもあります。こちらは「下町ロケット」に出てきたような大田区界隈の工場地帯が舞台ですが、灼けた鉄の匂いや、削り出された鉄くずの、それぞれに尖って輝く様の描写は身近な心象風景でした。鉄の匂いとはつまり血の匂いだと、いずれ里山に来て知ることになりますが、それは後で話しましょう。そんな血の匂いを折々に嗅ぎながら私は育った。
 なにしろ国全体が若かったのは、戦争で高齢者が生き残る余地もなかったからでしょうし、人間も多彩で多様だった。昭和の家族というとサザエさんのような紋切り型の家族像がスタンダードに思われそうですが、あれは上流階級。私には幻想です。戦争の残滓もあって、もっと人間関係は様々だった。景気は上向きだったけれど、みんながみんな定職に就いて真面目に働いていたわけもなく、子どもから見ても何をしているのかよく分からない大人たちもいた。ご近所にも親戚にも路上にもいた。世間が日向で教えてくれないことも、そうした大人たちが身をもって教えてくれた。それも世間でした。親子の上下の関係にはない関係、学校が教える正しい社会の在り方に、すねて傾(かぶ)いた関係。タテヨコきっちりの正論ばかりでない斜めの「異見」。
 斜めは大事です。どんな家だって垂直の柱ばかりだと地震の横揺れに弱いでしょう。それで斜めの「かすがい」を入れますね。でもナナメの人間関係は、近頃なくなりました。存在そのものが許されないのでしょうか。親でも教師でもない大人が変なこと教えたら、それだけで問題になる。ナナメどころか家族も既に崩壊して久しい。
 だから都会のコンクリートに覆われた街は、空も地面も灰色でいながら、どこかに猥雑な原色が色さしていたのです。いま猥雑という言葉を久しぶりに使いましたが、懐かしい響きです。現代の日本が街から素知らぬ顔で覆い隠してしまった色彩ではないでしょうか。
 その猥雑がとりわけ極まるのは祭りのときで、浅草の三社祭みたいな大祭でなくとも、各町内ごとの祭りにも人間が・・・というよりも肉体が上気しながら群れてきて神輿を担ぐ。なにしろ人間も街も若かった。陶酔のあまり神輿を担いでいる最中に指がちぎれても気づかない、それで救急隊が後を着いて歩きながら路上の指を拾って歩く時代でした。だからいつもと違って、神輿を担ぐ大人たちの姿が、どこか人間ではないような・・・というか逆にこれが人間だったのかと、見てはいけない世界、自分ら子供には近寄れない禁断の領分を目の辺りにした気持ちでした。
 神輿の担ぎ手のほとんどは褌一丁の裸族で、大勢が寄せ合って神輿を天に突き上げる所作は、いま思えば人間界と天上界のセックスそのものでした。担ぎ手の恍惚とした表情は、つまり人間はこういうものだと、いつもと違う世界の気配は理屈抜きで伝わってきました。だから今ときどき見かけるような「子ども神輿」などは本来やってはいけないのです。あれは神様に失礼です。未成年はおとなしく山車を曳いていればいいのです。ほんらい「大人の領分」というべきものがあって、そこには「子供の分際」で踏み込んではいけない。どこの民族社会でも、子供が人になるにあたっては通過儀礼があって、それを経てこそ社会の一員として認められる。そういう境目もなくなり、大人の輪郭もぼやけて育ったのは、私たちの世代も同じなのですが。

 子どもの分際は大人と交わることもありました。祭りが終わってそのまま家に帰るはずもなく、幼稚園の子供たちも一緒に、褌の大人たちに肩車をされて、ご近所のキャバレーまで繰り出す流れでした。誰がどこの子など関係ない。世間はもっと大きな範囲で家庭でした。いまとなってはキャバレーというのも懐かしい響きですね。我ら子供はホステスさんたちから「かわいい、かわいい」とチヤホヤされてパフェなど食った記憶があります。こういうことはなぜか覚えている。店内の明かりも赤青緑の猥雑な極彩色。後年になって観た唐十郎の「状況劇場」の照明がまさにこの色彩でした。下町生まれの唐十郎は「キャバレーの明かり」と喜んでいたそうですが、紅テント・状況劇場の舞台は僕にも懐かしかった。ついでに言えば同時代の寺山修司の舞台は(彼は津軽の出身ですが)ねぶたのように土俗的なエキセントリック、つまり僕には縁の遠い、異国のサーカスを除くような感触でした。

あらかじめ失われたつながり



 東京の水は川も海も無残でした。横町のドブから東京湾まで、水という水が濁って腐い。大阪を舞台にした「泥の河」は、もう少し時代がを遡りますが、原作を映画にした川の描写は近い。今は死語となったヘドロが、溜り水の中でまるで生きているようにメタンガスを吹いている。「コウガイ(公害)」と「アンポ(安保)」は当時の子どもが誰でも覚えた言葉でした。
 そんな幼年期の刷り込みのおかげで、いまでも川や海で魚が泳いでいるのを見ると驚きます。どこか現実と思えない。ナマモノの水の世界とのつながりが、私にとっては物心ついたときから「あらかじめ失われていた」のです。子ども時代の刷り込みというのは凄いものですね。だから私の里山暮らしは、いまなお、そうしたつながりを取り戻すために生きているところがあります。そしてそういう人間として、都会から訪れる皆さんにも、土や火やもろもろの植物とのつながりを取り戻して欲しいと思って農学校を開いています。

 だから子どもを育てるなら、できる限り早く土に触れさせたほうがいい。これは理屈抜きで大事なことです。この文章をお読みのあなたが、いつか都会の平野から出ようと思っているのであれば、そして小さなお子さんが傍らにいるのであれば、理屈抜きで早く出たほうがいいでしょう。
 当時と比べてみれば今の都会は空気も空も格段にきれいになりました。しかし「あらかじめ世界のいろいろなものが失われている」という既失感は、いまもなお途切れず、耳鳴りのように基底通音として聴こえるようです。失われたものを取り返す、そのための手始めの意味もあって、農園では折々に火を焚くのですが、まあ火の話は後で。

 東京の水の話に戻りますが、そもそも雨も危ないものでした。雨に当たるとハゲるから出るな、と大人たちは言ったものです。戦後の米ソの冷戦のなか度重なる核実験は、当時は大気圏つまり空の上で行なわれていたから北半球の放射性物質を非常に高い濃度にしました。それが雨になって降り注いでいたのもこの時代です。アトミック・エイジと呼ばれて私たちは育った。
 視界を遮るものの少ない下町には、木造の二階建てアパートが肩を寄せ合い並んでいて、大抵は屋上が共同の物干し場になっています。外階段を昇って眺めるとご近所の物干し場のところどころには、豚か牛の大きな皮が毛布のように何枚も干されている。グローブや太鼓をつくる皮職人さんも多かった。
 牛の皮が風に揺れてめくれる隙間に、北東の筑波山や北の群馬の山塊、西に目を向ければ新宿の向こうに名前の分からない山々、もちろん富士山も見えました。名前も分からない薄紫の山影のふもとでは一体どんな人が住んでいるのかと、まさか当時はそこに自分が暮らすことになるとは夢にも思うことなく、広い平野の果てが見渡せました。
 さて、私はいまここで平野という言葉を使いました。これが大事なキーワードです。どんな地形に生まれて育つかで人間の価値観は大きく変わると、私は思うからです。平野の話はこれから繰り返し語っていきます。
 私が生まれ育った木造のアパートもとっくにありません。十年くらい前に通りかかったら、何の匂いも影もない、悲しいくらいに普通の月極駐車場になっていました。時代は目まぐるしく廻り続けて、いまも私は眩暈を起こしそうになるけれど、それでも容赦なく時代は回転木馬で廻り続けて、都会は大きく広がって、ものすごい遠心力で私を平野の周辺へ、そして外側へと振り切り飛ばすのでした。そうしてたどり着いたのが、いま暮らす里山なのです。

つづく(2023/12/07)




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