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生活の中に在りたい


ある日の休日。


朝、目が覚めて

コーヒーを淹れて、お気に入りのマグカップで飲む。

昼下がり、部屋で好きな音楽をかける。

夜、本棚から一冊の本を取り出し、ベッドの中で読む。

気がついたら眠っていた。


そんな風に

「生活の中に共に在る」ものをつくれたら、と思ってやみません。



前回、「一点モノ」をつくることへの葛藤について書きました。



どうしても「多くの人にとって身近なもの」にはなりにくい、美術作品というもの。

音楽や本のように、「気軽に生活の中に招き入れることができる」ものにはなりにくい、日本画という一点モノ。


私はそれに関わる人間として、自分でも葛藤するところは多くあります。

私はできる限り、毎日の暮らしの中に寄り添うことのできる作品、気軽に招き入れることのできる作品をつくっていきたいと思っています。

日本画以外の、さらには絵以外の表現の形態にも関心があって、密かにやってみてもいます。


私には「空想の物語を表現する」という目的があります。

そして「絵を描くこと」は、そのための手段の一つにすぎないと考えています。


芸術全般に興味を持っており、空想の物語を表現できれば手段は何でも良く、「絵」である必然性は無いのです。

藝大で絵画を専攻していながらも、自分にとってベストな表現の形態が絵なのかどうかさえ、まだ分からない状態です。


日々、模索しています。



それから、これは妄想ですが。

もし大学で、もう一つ専攻を選べるとしたらという妄想。


音楽なら音環か作曲、美術なら工芸
かなぁ。



音楽はずっと好きなことですし、陶芸やガラスで食器を作るのもいいなぁと思うのです。


工芸品も一点モノであることは多いですが、生活の中に寄り添うということにおいて最もそうであると思うので、関心があります。いつかやってみたい。



音楽や食器は身近で、暮らしの中にすっと溶け込むものです。


それを芸術として、作品として作ることができるって、いいなぁ。




絵には、何ができるだろうか。




さて


「美術作品」というと、この作品がいくらになった、この名画はいくらの価値がある、など
「作品そのもの」よりも

「どれだけ有名で、値段がどれほどか、価値がどれほどか」

が注目される場合が多くあります。


美術といえば「オークション」のイメージも大きく、投機として作品を購入する人も沢山いるようです。最近はNFTもありますし。

「美術作品」と「お金(価値がどれくらいか)」は
結びつきが非常に強いようです。

私はこの辺には全く詳しくないので書かないことにします。

もちろん
芸術を何と捉えるのかは人それぞれの自由だと私は思っています。


というわけで
以下は完全に個人的な考えです。


そもそも、作品の価値は「値段」で測れるものなのでしょうか。

本来、作品の価値は数字で決まるものではないはずです。


「どれだけそばにいられたか」


ではないでしょうか。


「価値」という言葉にも私は違和感を感じます。

そもそも、「価値」って何でしょう。


生活の中に寄り添って、できるだけそばにいて、
「大切」になる。

それだけでいいのです。


「将来、自分の作品の値段がどんどん上がっていく」

ということに、私は全く興味を持てません。

「生活の中に在ること」や

「誰でも『本物』を気軽に楽しめること」

からどんどん遠ざかり、日常から遠い存在になることには、憧れません。



例えば、音楽や文学。
それらは「値段が上がっていく」ということはありません。

「一点モノ」ではなく、本物を無限に増殖できる芸術だからです。


気軽に生活の中に招き入れることができて、そばにいることができる音楽や文学のように。

私の絵もそんな風になれないだろうかと、作品の形態について模索しているところです。


私の専攻している日本画は一点モノとしての性質が非常に強い芸術です。
値段も決して安いものではありません。


それに、美術館には行ったことがあるけれど、ギャラリーには行ったことがない方は、多いのではないでしょうか。

絵を買う……?
額縁も用意しなきゃいけないのかな?

壁に穴開けられないんだけどな……

そもそも、絵なんて買ったことがない、どこでどうやって買うんだろう。

本や音楽などと比べれば、やはり敷居が高いですね。

しかし、絵画も勿論、生活の中に在って寄り添うことができます。


私も先日、初めて作品を購入しました。

このことが、私にとってとても大きな出来事でした。

ふっと顔を上げると、部屋の壁に掛けられた作品と目が合うのです。


一緒に暮らしている感覚です。目が合うたびに、作品は物語をそっと語りかけてくれます。


作品が生活の中に共にあることについて、鑑賞する立場から、じっくりと考えることになりました。



美術は身近で気軽に楽しめるものかというと、少し敷居が高い、「分かる」ためには知識が必要、と思われがちなのが現状です。


実際にはそんなことはなく、美術に関する知識も必要ありません。

美大に通っている私でも、美術史や巨匠の作品について、実は全く詳しくありません。
(おい……!)

さすがに勉強しなくてはと、最近美術史の講義を取っています。

そういえば美術館にも長いこと行っていない……!ギャラリーばかり。

「よく分からない」と言われる現代アートなどの難解な作品も、私は知識も何もないので、その「分からなさ」を楽しんでいるくらいです。


また美術を見るなら美術館、と思われがちですが、ギャラリーももっと多くの人にとって身近になったらいいなぁと思うのです。


ギャラリーは入場無料で、作家さんと直接お話しすることができます。

そう、

作家さんに直接、作品のことについて話を聞けるのは、ギャラリーの一番面白いところだと思っています。

美術作品というものの性質上どうしても、やはり広く普及しやすい音楽や文学、漫画やアニメと同じようにはいきませんが、今よりも、ほんの少しでも美術が身近な存在になったらいいな、と思う日々です。



ところで

この記事を書きながら今、電車でとあるライブハウスへと向かっています。
小さなアットホームなお店で、客席は20席ほどのアコースティック専門のライブハウスです。

そこにはいつもの温かな人たち、いつもの温かな時間があります。

扉を開ければ、数字で測ることのできない芸術が、そこにはありました。


ライブハウスに行くようになって、生の芸術に触れる機会が、一気に増えました。

アーティストの方とお話ししたり。


いつも、芸術とは何であるかを教えてもらっているように思います。


なぜ、作品を作るのか。

どのように作品を届けていきたいか。

作り手として、どう生きるのか。

向き合うことになりました。


定期的にライブハウスに行くようになって、今では完全に、なくてはならない「生活の一部」。


日々の生活のサイクルの中に「芸術」があること。


その日を楽しみに日々を生き、ライブに行き、生きる力をもらって帰り、また日々を過ごすのです。

芸術のある暮らし。
暮らしの中に寄り添う芸術。


私もそのようなものを作りたい、と
強く思ったのです。


生活の中に在りたい。




何を「大切」に思うかは人それぞれですが、
その「大切」に思うものが生活の中にあるだけで、
そばに寄り添ってくれるだけで、
毎日がほんの少し、明るくなる。


それは太陽のような明るさではなく、
月や、星の灯りのような、微かな光かもしれません。


けれどもそれがあるだけで、
ただの暗闇は、夜空になります。


それが芸術だと思うのです。



そんなものが作れたら、この上ない幸福です。


窓から見える月のように、そっと寄り添うことのできる作品を作り続けていきたい。


そのための作品の形態や届け方をこれからも模索していくつもりです。


ちょっと長くなってしまいましたが、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございます。

夜も暑い日が続きますが、どうかお身体にお気をつけください。


今夜も
生活の中の大切な時間のひとかけらを、
ここにくださってありがとうございました。


それではまた、

おやすみなさい。








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