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泉谷しげるearly daysの巻その4。

・泉谷しげる「わが奔走」(ロッキング・オン)

・「新譜ジャーナル 1976年6月号」(自由国民社)

 「新譜ジャーナル」の1976年6月号とはRCサクセション『シングル・マン』の広告が表紙裏に掲載されていたり、前回書いた「甦る!RCサクセション」の元記事が載った号です。
他にはガロとグレープの解散コンサートの記事や、りりィさんのアルバム『オーロイラ』の録音中の写真ということでバイバイセッションバンドと一緒に写っています(メンバーは吉田建さん、坂本龍一さん、伊藤銀次さん、上原裕さんに斉藤ノブさんたち)。
泉谷さんの特集はアルバム『家族』の3曲掲載されています。
このアルバムでは「日本人」という部分を描こうとした努力を相当した、と。
それには「家族」というテーマをいじくってみるのが良いんではないかと、そういう感じでやってみたそうです。
この狙いは成功し、泉谷さんの作品の中でも名作の誉れが高いアルバムです。

 RCサクセション『シングル・マン』は作品完成から発売までのタイム・ラグがあったり、ギターの破廉ケンチさんの不調があったため活動が上手くいかなかった時期であります。
彼らの代表曲「スローバラード」や「ヒッピーに捧ぐ」が収録されていたり、タワー・オブ・パワーの参加など、リアルタイムでもっともっと注目されるべきだったアルバムです。
すぐに廃盤になってしまったこのアルバムは後に再発委員会が発足され、パイドパイパーハウスや国立のレコード・プラントで再発された途端に再プレスされたりと、後の名盤復刻のきっかけのひとつになるのはこの数年後の話ですね。
(清志郎さんのインタビューによると、星勝さんにはザ・モップス時代のようなサウンドを期待したのに陽水さんみたいな仕上がりになったのが不満だったということらしいです)

 吉田拓郎さんはフォーライフ・レコードのプロデューサーとして川村ゆうこさんのプロデュースに力をいれていたり、浜田省吾さんがいた愛奴をバックに迎えたツアーを行ったりと、後進を育てていく活動が目立つようになります。
ちなみに浜田省吾さんが愛奴を脱退して、ソロでやっていこうという時に相談したのは拓郎さんだったそうです。
(その時、拓郎さんはとある理由でふさぎこんでいて、デモ・テープを聴いて「浜田くん、何で『恋の西武新宿線』みたいな曲書かないの?」と言ったとか)

・「ミュージック・ステディ 1985年1月号」(ステディ出版)
浜田省吾徹底研究~愛奴時代、吉田拓郎とのエピソードなどを語ったロング・インタビュー掲載。

 加藤和彦さんは安井かずみさん作詞のアルバム『それから先のことは・・・』を1976年に発売し、安井さんを作詞に迎えた作品作りが本格化しています。
オフコースは杉田二郎さんの事務所、サブ・ミュージックから独立し、オフコース・カンパニーを設立します。
武藤敏史さんがディレクターになって二枚目のアルバム『SONG IS LOVE』を発売し、そのアルバムに元ジャネットの大間ジロー仁世さんと松尾一彦さんを起用し、後のバンド化への流れを作りました。

 井上陽水さんのフォーライフ移籍第一弾のアルバム『招待状のないショー』は初のセルフ・プロデュース作品で、ミュージシャンもサディスティックスの高中正義さん、後藤次利さん、他には大村憲司さん、小原礼さんに元はちみつぱいの駒沢裕城さん、元ムーンライダーズの椎名和夫さんや矢野顕子さんが参加しています。
そして、アレンジャーは星勝さんと矢野誠さんに陽水さん自身が担当しました。
アルバムの先行シングル「青空、ひとりきり」と「Good,Good-Bye」はかなり知られている曲ではないでしょうか。

・「別冊カドカワ 総力特集 井上陽水」(KADOKAWA)

 ここまで順調に進んできたように思えるフォーライフ・レコードと周辺のミュージシャンたちですが、設立一周年ということで発売した『クリスマス・アルバム』がその後の活動に影響を及ぼすのですが、その辺を含めて次回に回します。すみません。

 後1回、全5回で「泉谷しげるearly days」を終わらせようと思ってましたが、ちょっと終わりそうにないので、もう少し続けます。お楽しみに。

 ではまたー。

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