創世学園ピノコニー修学旅行13
「修了試験だ!生徒諸君、締まっていけよ!この時計は24時00分だけ鍵穴が露出する門外不出の十三番目の扉となっている!鍵穴に日本の五百円玉を入れると開く仕掛けだ!」
「先生!その五百円とかいうの持ってないです!」「今回は先生が払う!生きて帰ればキャッシュバックになるから財布の心配は無用だ!」「えっ…おカネのことだったんですか…?」
一口に煉獄と言っても様々な煉獄があり、時代と共に変化する場合もあります。世界ごとに方針が違い、方針に従った倫理規定やドレスコードがある以上は、外部から記憶を持ち込んだり持ち出すにも規定の縛りを受ける場合がある。
記憶や性格など身だしなみを整えるためのインスタンスマップに多くのリソースを避ける道理もないので、利用者ごとにピノコニーの夢境と同様の自動生成システムが使われる必然があります。
今回入った煉獄は基礎に忠実な煉獄らしい煉獄、見ようによっては過酷な修練の目的に特化した世界に繋がっているため、その世界に見合う資質を有しているかどうかが試されます。
まさにこの時を待っていたかと言わんばかり。(五百円で煉獄に会えるなら日本のホス狂たちがこぞって弁当持って通いそうだな…「五千円硬貨」にしておくべきだったか…)
実は今回もう特に修学旅行として話すべきことはほとんどないのです。しかし強いて取り上げるならば、FF13のラスボスであるオーファンについてを取り上げておきたかった。
ライトニングもカイアスもホープも、FF13のテーマとしてはどうでもいいと言えばどうでもいいのです。
オーファンの語義は「孤児」にあります。地球人も似たようなもので、何故「親切」と書いて「しんせつ」と読み、親身に接することを意味するか。「孤児のようなものだから」です。
神は誰から産まれ、人類は誰から産まれ、自分は誰から産まれたのかと考えたことはないでしょうか。僕はこの人生に至って何度も考えてきました。
世界の外部に縁があるのかないのか、あるならどんな存在が魂の親であり何故生まれてきたのか、ないなら何故生まれてきたのか。いずれにせよ「捨てられたのではないか」と感じていた。
こうまで美しい世界だというのに、どうしてあんな結末に。
甘いテイストで歌われている曲ですが、子を崖から突き落として這い上がってこれた子だけ育てるという意味の「獅子の子落とし」という慣用句を知っていればその言葉はそれ以上に重くのしかかって来る。
結論だけ言えば、真実が何であれ、捨てられたというのなら自分を捨てた者のことなど忘れてしまって強くなればいいんです。そういう意味で「親切」を前向きに捉えた上で、日々修練を心掛けていく。
そのことは天才だろうと努力家の修羅だろうと地球ですべきことは変わらないのです、やり方が違うだけで。
そういう意味でも、仮の形式でも煉獄という修練に特化した世界観やその定住者たちの精神性は知っておいて損はない。現にビデオゲームの大半がそのレベリング志向に基づいたものとなっている。
自己鍛錬に前向きになれる人というのは、強いだけでなく鍛錬の日々を楽しむことにも長けていることが多いです。その心意気さえ全体にあれば、より世界全体が快気に満ちてくるはずのところ、その気配が薄い。
弱さを否定するわけではないのです。誰だって幼い頃は身体も地位も弱いスタートラインから始まりますから。
弱さの肯定でもって強くなろうとする意志を失ってしまうことを否定しているのです。べつに身体が弱いままでも(フィジカルに依存する部分も多々あるが)、ゲームを通じて心を強く持てるようになるならそれでいい。
夢境というのもまさにそのようなイメージトレーニングの場です。逆に身体をどれほど鍛えても心が弱いままということも往々にしてありますので。
自身の弱さを洗い流す傾向の強い煉獄から繋がる世界は、好戦的な武芸・武闘を主とした世界が主となるでしょう。
武闘界が厳しいところではあったとしても、不快なところではないというイメージを掴んでもらいたい。
それに対する卑近な嫌悪感や猜疑心をもって鏡の世界に入ると、それが自身にそのまま返ってきてしまいますので、それが嫌なら尚のこと。
そういう世界もあり、公式に需要も認められているということを理解し、認めることが大切です。
「旧煉獄」はそれとは少し違うかもしれない。より苛烈で不快なものと相まみえる煉獄もあり、時代が変われば世界も変わる。
その煉獄を抜けた先にある世界は、より強き者・強くなりたい者が集って住まう世界であるので、その世界に入る前に自身の弱い部分を洗い流しておかなくては、世界に入場したところで立ち行かなくなります。
※その世界における強さの定義に準拠する弱さであり、何をもって強いとするかは世界ごとのドレスコードによっても変わります
僕自身は闘いの日々を送る世界に住まうことを望んでいるわけではなく世界を創る日々を望んでいるので「武闘界に適う強さ」は鍛えてませんし、そこに住まうことは最終目標ではありませんが、創造・管理に及んで遍く知識を必要としています。
特別講習として、煉獄の万華鏡システムの対象を杏寿郎にすると、実際の杏寿郎より弱化した快活な火属性の武士たちが大量に出てくることになります。(沼ってるホス狂メンヘラたちは本当に行ってきた方がいい)
ここでは物語作品などは描きませんが、一応は共有プロットという体裁で綴っているものなので、いずれこの属性コンセプトの世界を描く日も来るかと思います。その日を愉しみにしています。
オケアノスプロジェクトの構想時点から、どれほど舌舐めずりしながら戦闘システムやキャラクタービルドシステムを練り続けてきたか…
僕のゲームの世界観設定は創世学の延長線上で「道場や学校」のテイストとするつもりなので、敵役は「指導教官」ということになります。
教養となるような必然悪・必要悪などのテイストは小説の方に持っていって分離する方針です。
小説の方で便宜上どんな悪役・敵役を描くことになろうと、別のプロジェクトから漏れなく拾い切れる土壌の構想をメインに構え直したかった。オケアノス時点ではそれがなかった。
実はこのピノコニー修学旅行企画は、13番目で最終回とするつもりだったのですが、14番で最終回となります。厳密には14をもって15以降の全てのナンバーを包括する可動式のスケールへ移行する。
時計にとって13という数字は、その時が来るまでの時間の停止を意味していた。それはある意味においては、ずっと心臓が止まって眠っていたようなものでもある。
14への到達をもって、その心臓は新たなる進化を遂げて復活し、時計は踊り出す。
皆さんは、もしもフィクションに描かれている物語の多くが「実話」だったとしたらと考えてみたことはあるでしょうか。僕は小説を志し始めてから、ずっとそのようなことを考え続けてきました。
だから書く力があったとしても書けなかった。巨匠型であるだけでなく同時に主人公型でもあったので、想像力を活かすベクトルがフィクションだけでなく現実にも向かっていて、それらの境界の垣根は元々薄かった。
だから「異世界の実話なのかもしれない」とも。だから創世学です。
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