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#077幕末維新の志士とその顕彰(一)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(16)

 幕末・維新の歴史ファンは非常に多いと思います。かくいう著者も少年期には司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』などの歴史小説を熱心に読んだ一人です。大学進学の際に、京都に所在する大学を選んだのも、関連する史跡を授業の合間に見て回りたいという気持ちもあったことも原因として挙げられます。学生時代には、霊山護国神社へ行き、坂本龍馬の墓を見、等持院に行っては、これが幕末に三条河原に晒された足利将軍三代の木造か、と実見して感心したものです。一応、その後に大学院へ進み、研究をするにつれて歴史小説からはなかなか遠ざかりましたが、逆にあまり有名でない人物の史跡について調べたり、文章を書くことが出てましりました。今回はそんな原稿書きの落穂ひろいです。

 十数年前に仕事をしていた際に、滋賀県愛知郡愛東町(現在は滋賀県東近江市)、当時は愛知郡鯰江村出身の幕末の志士、丹羽正雄という人物を知りました。丹羽正雄と言ってもなかなかピンとくる方はいないのではないでしょうか。彼は三条実美の家来で、幕末の騒乱の中で命を落とす人物です。三条家の家臣では、後世まで生き残る戸田雅楽こと尾崎三良の方が名前としては知られているでしょう。丹羽正雄は『尾崎三良自叙略伝』にもその名が記されている、尾崎の同僚にあたる人物です。

 丹羽正雄は、鯰江村の福田市右衛門の次男・卯之助として生まれ、幼少期から学問に熱心で、金屋村(東近江市八日市町金屋)の医師・馬淵駿斎に医学を学び、蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)の儒者・速水橘園に儒学を学んだ。幕末の騒乱の中で京都へ出て、梅田雲浜、平野国臣、頼三樹三郎らと交わった。安政の大獄の際に、三条家の家臣、丹羽正庸が捕縛、追放され、卯之助は丹羽正庸の養子となって、名を丹羽正雄と改め、三条実美の家臣として活動することとなります。その後、文久三年(一八六三)八月一八日の政変で三条実美は政界から追い落とされ、いわゆる「七卿落ち」といわれる、京都から長州藩を頼って都落ちをし、さらに大宰府(福岡県)にまで落ちていきます。元治元年(一八六四)に丹羽正雄は三条実美の命を受けて、六月に丹羽正雄は同志と横浜鎖港の嘆願をするために京都潜入を試み、伏見において京都所司代の手の者(桑名藩兵)により捕縛されます。捕縛された丹羽正雄は当時の京都の監獄であった六角獄舎(京都市中京区因幡町一一二)に投獄されました。そこには生野の乱で捕縛された、旧知の志士である平野国臣や、池田屋事件に関与した古高俊太郎ら著名な志士たちも同じく投獄されていました。

六角獄舎跡にある「殉難勤王志士忠霊塔」

 丹羽正雄が捕縛された同じ年に、失地回復を狙った長州藩による禁門の変が起こります。その際に、戦火に乗じて捕らえられている志士たちが決起して逃亡することを幕吏が恐れ、丹羽正雄を含む、平野国臣ら六角獄舎に投獄されていた三七名の志士たちは、その場の判断で斬首されて、西の京刑場(西大路太子道一帯)に葬られたとのことです。明治一〇年(一八七七)ごろに、化芥所(けがいしょ,ごみ処理施設)となっていた刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、平野国臣ら三七名の処刑された志士の遺骨であることが判明し、改めて浄土宗西山禅林寺派の寺院・竹林寺(京都市上京区下立売通天神道西入行衛町)へ移葬され、のち明治四三年(一九一〇)に竹林寺境内に墓碑として「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」が建立されています。

竹林寺境内にある「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」

 この明治一〇年に発見されたという点については、化芥所が明治一〇年にはまだこの位置に設置されていないという話もあって異説もあり、今回、元になっている資料まではたどり着けなかったので、正確な年は詳らかではありません。とはいえ、きちんとした審議も経ずに、恐怖にかられた現場担当者によって急遽処刑されて、よく判らないまま埋葬されていたものが後に明らかになった、という経緯はそのままの理解でよいのでしょう。ごみ処理施設を発掘して発見されたというのが、何とも劇的な感じがしますが、現在も竹林寺にはこの石碑は残されており、丹羽正雄らの名前が確認できます(竹林寺は観光寺院ではないので、石碑見学の際には事前に連絡をしておくことをお勧めします。)。名も知られていない、いわゆる「草莽の志士」と呼ばれる人々についても、このような形で記録が残されることで、後の世に名前やその活動が伝わっていくので、これも大事な資料といえるでしょう。

 今回は丹羽正雄について紹介しましたが、同じく六角獄舎へ一緒に投獄されていた志士に、天誅組の乱に参加した伴林光平もいました。次回は伴林光平の石碑についてご紹介したいと思います。

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