馬鹿

したがきなし

なにかにたべられたりつかわれたりして初めてやくにたつものって世の中にたくさんあると思っていて、わたしだってその1人だと思う

舞台照明のデザインを書いて、照明を操作して、その光やそれによって照らされているいろんなものを見て、わたしはこれに生かされているんだと本気で思ったし、これを手放した時とか持っていなかった時のことを想像して震えたりした。

芸術はきっと人を支えるためにあって、人を傷つかないためにあるってわたしは信じている。クリスマス休戦とかだってそうだし、きっと音楽は誰かを救っているんだって、ほんきでおもっている。エンタメ…と芸術の違いはさておき、(エンタメが芸術じゃない、という意見もまあわかるが)そういうものを見て生かされている人は世の中に一定数いて、もちろんわたしはそのひとりで、でもわたしは芸術に、生かされている、気がする。芸術が生きているから、わたしが生きているんだと思う。これは享受ではなくて、創造のはなし。

わたしがすごいんだという意識は何ひとつないけれど、わたしを生かしている芸術とかエンタメはすごいんだと思う。
だからわたしからそういうものを奪わないで欲しい。芸術やエンタメの価値はきっとわたしと同義で、芸術やエンタメが否定された瞬間に、それらをつくるわたしの価値もなくなる。
わたしは自由に生をまっとうする人間ではなくて、多分芸術とかエンタメとか、その先にある人間のためにあるんだって、本気で思っている。仕事は遅いし、エクセルとか苦手だし、論理的に考えることも苦手だし、マルチタスクもできないし、キャストにもうけいさん!って言われることもあるけど、わたしは正直芸術とかエンタメに愛されまくっていて、それってこんなところに書くものでもないしすごく贅沢なものなんだと思う。はっきり書く。こんなに馬鹿なのに、馬鹿なまま生きられている。わたしは恵まれている。

すきなことがあること、そしてそれができていること。(上手い下手ではなく、今、動作として続けていられること、そしてその環境があるということ)
ここで暴露しておくと、わたしはスキップができなくて、マット運動の前周りができなくて、ラケットとかにボールが当たったことがなくて、50メートルは13秒、中高6年間体育の成績は2(しかもほとんど出席していた)とにかくそういうくらいの運動音痴で、数学の成績は毎日ありえないくらい勉強しても2点を取るようなレベルで、それでもわたしは音楽と美術と国語の成績は学生生活で一度も最高評価を取り逃がしたことがなかった。

自慢の話ではなくて、自分にはこれしかないという幸せと、絶望の話だ。
これほど酷なことがあるだろうか。

白いブラウスとかシャツは苦手だ。綺麗な分目立つし、わたしは人前で食事をする時にとても緊張して、口元がゆるくなってしまう(行儀が悪い,ごめん、)から、すぐ汚す。ボールペンのインク、絵の具、色んなものを汚して、でもとれなかった。
すぐに水で洗わないと、しっかり染み付いてしまう。

結婚って決別だって思う。幸せだけど,色んなものとのけつべつ。だから白いんだって、子供ながらにずっと思っていた。小さい頃、親戚の結婚式を見て泣いた。

近くにいただいすきな親戚が、とおくにいってしまうことへの絶望とか、妙に神聖なそのくうきに耐えられなかった。なんにもうれしくなんてなかったんだ。

ご祝儀は、おめでとうの気持ちじゃなくてもう最後だからっていう意味なんだと"思っ、た、ことも"あった。
(結婚願望はある。それはそれとして結婚は素敵だと思うし、わたしは幸せになりたい!!わたしそんな捻くれてなんかない)



芸術に愛されたわたしも、わたしに見つかってしまった芸術も、わたしが今回のツアーでデザインした照明も、全部全部ほんとうにかわいそうだって思うし、わたしが愛したあらゆるもの、例えばブロッコリーとか苦いお茶とか、夜の散歩とか、人間とか新作のコスメとかお酒が入ったチョコレートとか、そういうものは全部酷だ。
愛するということは、すごく束縛を付き纏っていて、いつか手放すかそれを手にするかを選択しなければいけなくて、そういう時が来た時たぶんだれもが幸せになる選択、をわたしはつくれない。

フロムが書いた、「愛するということ」という本には、無償で愛でて、大切にして、どちらかが満足したら、片方が手放せることこそが愛だと書かれていた。子離れできない親が酷であるように、執着は時に人を、そして自分をも傷つけてしまうと。子供が親離れする時にちゃんと親も子供も幸せでいるのはすごいし、それはとても難しいってことだ。


わかっているはずなのに、わたしは自分で、
わたしは芸術がないと生きていけない、この照明はわたしがないと生まれなかった等と書いてしまっていて、それはわたしの可能性も照明の可能性も全て潰してしまっていて、これは未来の自分、…もっといえば、もしかしたら照明のデザインを書くことをやめ、な、け、れ、ばならなくなった時のわたしを地の底に落とすだろう。

だけども残念ながらわたしはわがままで、これまで20年(他人からしたらなんて平たい!でもわたしからしたら吃驚するほど恐ろしく長い年月で毎日絶望している)生きていながら、愛するものを手放したことがない。卒業した先輩とは仲良くさせてもらっている(と思っている)し、幼少期に始めたピアノをまだ弾いているし、絵も描くし、大学でも音楽の授業をとっている。たぶんわたしは、なにも一生手放せない。これを読んでいる友人がとしいたら、今頃震え上がっているだろう。どれだけ遠くに行っても絶対忘れてもらえないんだから。笑い事ではないな。わたしの中で永遠に生かされつつづけるのは、ほんとうにかわいそうだ。

そしてそれしか愛せないわたしが、あまりにかわいそうだ。これは自分への同情ではなく、呆れである。どうしようもない呆れ。もうお前は救われないよ。わたしは一生20歳だし、歳をとれないだろう。わたしは自分にやさしくなんてできない。

やさしいとは、ちゃんと分別を持って正しいことをきちんと適切に教えられることを言うんだと思う。

遅刻は仕方がないし、サボりたい日もある、そういうこともあるよね、昨日疲れてたんだよね、課題なんてやらなくていいよー好きなことしようよって口癖のように言っているから、けいちゃんってやさしいねって言われるけど、本当はなにもやさしくないし、人を許すことで自分を許そうとしているだけ。惨めだ。

流石にある程度の恥じらいはありますけども。歳を取れない自分にね。ピーターパンシンドロームとか子供部屋おじさんとか、わたし本当に笑えないよ。

それでいて本当に残酷なのは、多分わたしは芸術とは永遠の愛を誓えないということだ。

芸術やエンタメを創造できる人は他にもいて、わたしは芸術やエンタメがだいすきだけどだいきらいなところもある。

本当に芸術やエンタメにわたしは愛されているけど、婚姻だと手を取ってはくれないし、社会や世界がそれを認めてはくれないと思う。

し、今のわたしには、手を取る勇気もない。何もかもが怖い。何かを愛することは、常に不安が付き纏うし、勇気が必要だけど、まだ20年しか生きていないわたしに(?!)そんな選択ができるわけがない。

今できるのは、世界を無視して無理やり芸術とかエンタメとか自分を抱きしめて、めいいっぱいの愛を注ぐことだ。それだけ。残酷な話で、笑える。だってそれって依存とも捉えられる。しかも一方的な。生かされているわたしは、本当に惨め。それに、愛を注ぎながら、自分が生かされるという見返りがあるのだから、これだとまるで愛にならない。馬鹿みたいだ。それを20年弱続けている。それは心底、呆れている。
馬鹿みたいだって、本当に嘲笑ってほしい。

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