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「別離の前日」と美術館嗜好

 ヨーゼフ・イスラエルスの「別離の前日」。
 美術館に行くことが趣味になったきっかけを作った作品。

 高校の美術の授業で、夏休みの課題として美術館に行くことになった。とりあえず近場の(そして今はなき)名古屋ボストン美術館へ向かった。
 そこで1枚のA4用紙と鉛筆を持ちながらふらふらと作品をみる。元々美術には関心があって、中学校では美術部に入っていた。けれど自発的に美術館に行くほど行動的ではなかった。

 部屋から部屋へ移動したとき、一つの絵が目に入ってきた。それが「別離の前日」だった。
 母と娘が描かれている。母は顔を手で覆い、娘はぼんやりと奥のほうを眺めている。タイトルの意味や親子の表情の意図が掴めぬまま絵を見ていた。娘の目線の先は暗闇だ。そのなかにロウソクの灯りがともっている。ロウソクがぼんやりと光を落とし、その光のなかには棺が見えた。
 その瞬間、タイトルと親子の表情の意味を理解する。今日は母にとって夫との「別離の前日」であり、また娘にとって父との「別離の前日」なのだ。父を入れた暗色の棺は、明日埋葬にでも出されるのだろう。夫、あるいは父の死。それをまだ十分受け入れられぬまま、別離の日がついに明日まで迫っている。悲しみに暮れているのに、それを追いかけてさらに悲しみが二人を呑み込んでしまう。二人の表情は、悲しみをも超越した、絶望のように見える。

 この絵を見て、タイトルの意味、親子の表情の意図を理解したとき、心がぐわん、と動いた。鼻筋がツンとした。

 たった一つの絵、言ってしまえばただの平面に、こんなにも心が動かされる。

 絵と小説は少し似ている気がする。どちらも自分一人では到達できないような発想、世界へ連れていってくれる。
 絵には文章がない。小説には画がない。だからこそ、受け手が自由に空想することができる。私は絵をみて空想するのが好きだから、オーディオガイドは使わないようにしている。一度だけ、ミュシャの美術展で使ったけれど待ち時間の長さも相まって疲れきってしまった。
 オーディオガイドを使うと、その作品を観るためにかける時間も、作品を観る順番も制限される。ガイドを一つ一つ、全部生真面目に聴く必要はない。けれどお金を払ったのだから全部聴きたいと貧乏性を発揮してしまう。順番通りにガイドを聴かなきゃいけないなんて決まりはない。けれどどうしても番号がふられているとその番号どおりに聴きたくなってしまう。
 そんな理由からもうオーディオガイドを使う予定は今のところない。

 少し話が逸れました。
 「別離の前日」との出会いが、私に美術館での出会いの楽しさを教えてくれた。一つの美術展で一つの心動かされる作品に出会えれば儲かりものだ。心動かされる出会いは日常のなかにそれほどないのだけれど、美術館に行けば大抵一つ、多いときには三つくらい出会うことができる。だから私は美術館が好きだ。美術館の雰囲気も大好きで、美術館へ行く前日は顔がにやけてしまう。
 

 自分が心動かされたものの名前を覚えておきたくて、「ヨーゼフ・イスラエルス」と「別離の前日」の2単語を必死に頭にたたきこんだ。この2単語は、10年後もきっと覚えていられている気がする。

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