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「自由意思」という名の幻想 すべてはうまくいっている

私が西洋占星術を学び始めてから28年という非常に長い月日が経ちますが、その間ずっと知りたいと思っていたのは「我々の運命は事前にすべて決まっているのか?それとも自由意思によって変えられる余地が僅かでもあるのか?」という哲学的な問いでした。その答えが知りたくて占星術をずっと続けて来たと言っても過言ではありません。

ここで少し注意して読んでもらいたいのは「そもそも運命なんてものが存在するのか?」という根本的な疑問ではない・・・という部分です。

「運命が存在する」ということ自体は、私にとって議論の余地もないほど自明の理です。私自身の長い鑑定経験からも断言できますが、ほとんどの人はホロスコープに描かれた「シナリオ通りの人生」を、そうとは気がつかずにそのまま生きています。そうでなければ占星術がこれほどまでに「当たる」はずがないからですね。

ところが多くの人は「すべては自分の意思で選び取って来たもの」と勘違いしながら歯を食いしばって必死に生きており、それはまるで舞台役者が自分の役柄にのめり込み過ぎて「これこそが私の本当の人生だ」と思い込んでいる状態に似ています。

でも私たちの人生にはあらかじめ用意された「台本」がありますので、ストーリーの結末は最初から決められています。まさに、シェークスピアが書き残したように「全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者に過ぎない」のですね。

演出家兼舞台監督でもある神から見れば、私たちは決定権を持たないただの「演者」です。いや、多少のアドリブぐらいなら許されているかもしれませんが、それでも舞台全体の「筋」を変えるほどの権限は持っていません。

人生の中で時々発生する「病気」や「事故」は、アドリブを多用し過ぎて脱線気味の役者さんを、ストーリーの「本筋」に引き戻すために必然的に生じている事件だと考えられるのです。舞台監督さんは何が何でも「定められたエンディング」に我々演者を誘導するつもりなんでしょうね(笑)。

私は21歳の時に初めて自分のホロスコープを手書きで作ってみましたが、そこには自分の容姿、性格、才能、悩み、その当時に患っていた「うつ病」に至るまで、すべての事象が詳細に書き記されていました。
まるで自分の「履歴書」か「取扱説明書」を読んでいるような不思議な気分になりましたから、あの時の衝撃は今でも忘れられません。

読めない人から見ればホロスコープはただの「記号の羅列」に過ぎないでしょうが、私たち占星術師が見れば、そこには分厚い自伝本が丸々一冊書けるぐらいの膨大な量の個人情報が含まれているのです。依頼さえあれば、ハリー王子の回顧録よりも長~い「あなただけの物語」を書き上げることができますよ。

もしこの最初の体験が、他の占い師さんに「対面鑑定してもらった」ということであれば「私の容姿を見ながら、それっぽい話を創作しているんだろうな」と疑ったと思います。いわゆる「コールドリーディング」と呼ばれる詐欺的なテクニックですね。
ところが、私は一番最初に自分で自分のホロスコープを解読したのですから、その内容について「誰にも文句のつけようがなかった」んです。

もしこの「現実世界と占星術の内容の一致」を偶然だとするならば、その偶然の発生確率は「チンパンジーが適当にパソコンのキーボードを打っていたら、たまたま村上春樹の小説と同じ内容の文章が完成した」というぐらいの奇跡に思えたのです。要するに、確率的に絶対あり得ないことだ・・・と感じたんですね。

試しに身近な人のホロスコープも作ってみましたが、そこには「機械関係に強く行動的だが、金銭感覚がドンブリな父」「万事について慎重だが、日和見主義で夫の決定に逆らわない母」「芸術的才能に優れた野心的な姉」の性格が鮮やかに浮かび上がって来たのです。ここまで来るともう「偶然の一致かもしれない」という考えは自分の中で完全に消えてしまいました。まさに占星術の魔力に「魂が魅了された瞬間」だったのです。

でも、ここで大きな疑問が湧いて来ます。

確かに私も含め、家族の性格・特技・持病は「ホロスコープ上に記された通り」でしたが、そうなると我々は運命にプログラムされた通りに動くだけの「ロボット」のような存在なのでしょうか?それとも、自分の自由意思で新たな運命を創造できる「小さな神」のような存在なのでしょうか?

いや、そもそも「自由意思」なんてものが、本当にこの世に存在しているんでしょうか?

最近、脳科学の世界において「受動意識仮説」という論文が提出され「人間には自由意思など一切存在していない」という革新的な学説が唱えられ始めています。

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