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【1日1読】白っぽい星はどんな味がするのか 稲垣足穂「星を食べた話」

 ある晩露台に白ッぽいものが落ちていた 口へ入れると 冷たくてカルシュームみたいな味がした
 何だろうと考えていると だしぬけに街上へ突き落とされた とたん 口の中から星のようなものがとび出して 尾をひいて屋根のむこうへ見えなくなってしまった
 自分が敷石の上に起きた時 黄いろい窓が月下にカラカラとあざ笑っていた

稲垣足穂『一千一秒物語』「星を食べた話」

梅雨の気候を嫌う人は多いですが、私は好んでいます。
ともすれば広くなりがちな、意識と想像力の間の距離が、梅雨の時期にはお互い張り付いてゼロになるような思考促進感覚があり、作家にとっては勢いをつけやすい時期とも言えるからです。
けれど、高湿度の空気は、長時間楽しんでいられないものであるのも事実。

日本はおかげさまでカラッと乾いた文学作品には恵まれず、超一流から道端のコンクリ破片レベルまで、ジメジメ文学がデフォルトなお国柄です。
しかし日本には、そんな体質に真っ向から蹴りを入れる物書きたちがいるのです。

小説家というよりは批評家として優れていた(という自覚を持っていた)三島由紀夫が天才と呼んだ作家が三人います。
まず、天衣無縫にして異様な情熱を持ち続けた、岡本かの子
次に、おそらく近代日本文学史上もっとも自在な散文を書いた、椿實
もう一人が、世界でも稀に見る作品群を書いた、稲垣足穂(通称タルホ)です。

引用したのは、タルホのデビュー作『一千一秒物語』から、「星を食べた話」の全文。
いったい誰が、語り手を地上へ突き落としたのか?
「星のようなもの」は星なのか?
窓がカラカラとあざ笑っている、ってどういう光景なのか!?

明確には像を結びがたいイメージが、無駄な言葉を使わないようバランス調整され、文章は起承転結らしき骨組みさえ持っています。
湿度の高い夏の晩でも、「カルシュームみたいな味」を探しに出かけてしまえそうです。

このドライな文章コンセプト。
「情念」「土着」などつけ入る隙を与えない徹底した文体。
タルホに似た作品は、世界を見渡しても見つかりません。

文学史的に観察すると、
日本の詩歌を支配してきた季語という原罪に孤立無援の戦いを挑んだ詩人吉田一穂(タルホより2歳年上)や、
モダニズム詩によって日本の文学風土に風穴を開けた北園克衛(タルホより2歳年下)とかなり近い志向性を共有しています。
(本人たちの間に連絡はほぼなかったようですが。)

また、タルホ文学は、彼の30代から始まる極貧生活を経た1960年代のタルホ・リバイバル以後、当時の第一線のアーティストから今日の若手芸術家に至るまで、深い影響を与えています。
その人が作る作品を一目見れば、「ああ、この人はタルホを読んでるな」と分かるほどです。

気難しい変人だったようです。しかし、だからこそ画期的なブレイクスルーを引き起こすことができたのです。
色々とうんざりしてしまう時期には、稲垣足穂の本が最高の処方箋となります。

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