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グリズリーマン(ヴェルナー・ヘルツォーク)✶映画日記

画像はイメージです


 映画『グリズリーマン』(2005)をみました。
 グリズリーの保護に身を捧げた男、ティモシー・トレッドウェルを主役としたドキュメンタリー作品です。「クマに襲われて亡くなったクマ保護活動家」としてしばしばニュースサイトに上がってくるため、そんな人がいるということだけは知っている方も多いかもしれません。
 映画はトレッドウェル自身の撮った映像(のちに映画として公開するつもりで撮り溜めていたもの、全部で100時間を超えるという)を中心に、彼を取り巻く人々のインタビュー映像や監督の見解が足され編集されているもの。

 まずは基本的な紹介に始まります。トレッドウェルはとても熱心な活動をしていたこと、最期はクマに襲われて亡くなったこと。トレッドウェルがクマの目と鼻の先でクマ愛を語る映像などが使われており、早くも「ちょっと近くない?怖……」という印象を抱きます。
 そしてだんだんと浮き彫りになってゆくトレッドウェルの激しさ。
 同じカットを何テイクも撮り直し、「クマの映画」より「自分の映画」を撮っているようなトレッドウェル。同性愛者や女性に対しさらりと差別発言をしてみせるトレッドウェル。雨があまり降らないことに本気で怒るトレッドウェル。クマの餌であるサケがたくさん上がってくるように川の水流をいじるトレッドウェル。人間もクマも守るための国の法を無視し、四文字語をふんだんに使って体制に毒づくトレッドウェル。クマのためというより自分がキモチ良いことをしているだけなのか?と思われる言動が示されてゆきます。
 「クマの上に立つ優しい戦士になる」という彼の言葉もまた考えさせられるものですね。それは「支配下に置いていいようにしたい」というほどの明確な悪意ではないことでしょうが、「自分が守ってあげないといけないから」という気持ちでありましょう。はっきりと「上に立つ」と言っているわけですから、クマを自分より下位の存在だと思っているわけです。

 また中盤には両親へのインタビューや写真を用いて、クマに出会う以前のトレッドウェルの人となりが描かれます。いたって普通の少年時代、役者になる夢の挫折、アルコール依存、そしてクマとの出会い。
 うまくいかなかった人生のなかで、クマを保護することについに活路を見出したトレッドウェル。そう言えばなんとなく良いようですが、それはクマを道具にした逃げと言うこともできます。「道具」に対する「愛」なんて、たかが知れたものではないですか。

 しかし、その節目節目に挿入されるは「奇跡」のようなシーンの数々です。手持ちでブレブレのカメラで撮影されたキツネとの追いかけっこや、強い風に揺れるアラスカの草木、そして雌をめぐって激しく闘う2頭の雄グマ。四六時中アラスカの自然に密着し、見つめ続け、カメラを回していなければ、誰にも知られることがなかった光景。二度とは訪れない光景。これらはトレッドウェルでなければ撮ることはできない映像でしょう。

 じゃあなにか、美しい映像を撮ったから無罪と言いたいのかというと、そんなことはありません。映画を見て私は、トレッドウェルは間違っていたと思いました。
 そもそも彼のキャンプ地は国立公園であり、彼の行動は国からの保護あっての活動なのです。守られているがゆえの幼稚な反逆。行く手に革命は存在しない、ただの虚しいどんちゃん騒ぎ。(なおこうした雰囲気は同監督の『小人の饗宴』などに通づるものがあると思います。)
 監督自身も終盤で「私はクマが特別な感情を持っているとは思えない。あるのは食への執着だけではないか」と語り、トレッドウェルの活動を切り捨てます。
 「それでも彼の生死には意味があった」などと聞こえのいい感じの言葉で締めてはいますが、基本的には切り捨てていると感じられます。

 少し関係ない話をします。
 ロード・ダンセイニの筆による「リルズウッドの森の開発」という短編小説があります。舞台は近現代、開発により森を追われたサテュロス(ギリシャ神話に登場する森の精)が人間と出会い、都市に溶け込んでゆく物語です。
 はっきり言って私はこの小説がとても嫌いです。この都市に溶け込んだサテュロスの外見があまりにもシニカル(とても典型的な成金の格好が描写される)で、「森の者は都市に出てくるな」というメッセージを感じるからです。これを読んで「この人は森的なものと都市的なものの間に壁を作りたいんだ」と思われ、それまで好きだったダンセイニの作品すべてまで嫌いになってしまいました。
 人と作品は切り離して考えるべきなのですが、「都市的なものを批判すること自体は別にいいとしてもそのために森の者を道具として利用するのは森の者に失礼だろう」と思ってしまい、止まらなくなったのです。


 話を戻しましょう。
 『グリズリーマン』の序盤、気の立ったクマに向かって「君を愛しているよ、君を愛しているよ…」と繰り返し語りかけるトレッドウェルの映像があります。クマをなだめるために、本心をさらけ出して接しているのでしょう。
 クマがいとしくてたまらないという声です。危害は加えない。愛したい。仲良くなりたい。本当に、これが本心なのだろうと思われる場面です。
 私はこれを切り捨てなければならないのだ、と思われました。彼はクマを道具にして逃げた人であり、残されたものがどれだけ美しくても、その態度を尊敬してはならないと。ダンセイニを偉そうに切って捨てたなら、そうしなければ矛盾になると。(……ちなみにこの場面の直後に彼の遺体を回収した作業員のインタビューが挿入され、トレッドウェルは「自業自得だと思う」と評されます。あまりに残酷すぎる編集だと思います。そこがまたたまらないわけですけど。)
 ラスト近くには、トレッドウェルが撮影した、のちに彼を襲うクマの映像が流れます。この鮭の死体を求めて肉球を水面に出して潜るクマの姿を、何と言うべきなのでしょう。このかわいらしさ、美しさ、強さ、それそのものを否定することはできません。しかし、しかし。

 映画の中のティモシー・トレッドウェルの姿には、私自身これまでに感じたことのある気持ちをいくつも思い出させられました。悲しさや美しさを伴った大切な気持ちでしたが、それらを否定しなければ、私自身の抱える矛盾の解消には至ることができないのでしょう。
 見ていてとてもつらくなる映画でした。しかし、見なければならない映画であったと思います。


2019/07/30視聴 


(マリノ)

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