嗜好中

「早く寝なさい」
「うん、おやすみ」
 窘める母を軽くあしらう十一時半。台所の食卓にSNSを開いたタブレットを置き、手元ではアプリゲームに勤しむ。自室の勉強机に洗濯物の山ができてしまった今、まともな椅子と机がここにしかない。まだ布団に潜り込む気にもならないので、仕方なくここで今日の余った時間を潰す。決して待っているわけではないのだが、今日も父の帰りは遅い。
 軋むドアの向こうから聞こえてきた低い帰宅の言葉に、「おかえり」と素っ気なく答える。扇風機の風に乗った微かな汗の匂いに顔を上げると、いつの間にか白髪の混じった後頭部が見えた。弁当箱と水筒を流しに置き、着替えを取りに二階へ上がっていく。父とは二人きりで出かけるほど仲良くはないが、洗濯物を分けたくなるほど嫌悪することもない。一人の人間としての好きも嫌いも持ち合わせている。だから、挨拶も返すし会話もする。そして、体臭に顔を顰めもする。背後の浴室に響きだした水音を聴きながら、画面の消えたタブレットに触れ指紋を読み込む。ロック解除と同時に指を上から下へスクロールするけれど、更新マークが空回りして消えた。

 ボーダーのTシャツにチェックのステテコ姿の父が、私の隣に座る。先ほど鼻をついた匂いも、男性用ボディーソープの爽やかな香りに変わっていた。温め直した皿を整え、「いただきます」と呟く。今夜のフードカバーの中身は、豆腐と肉野菜炒め、キムチと味噌汁に残り物のおかずが何品か。糖尿病の心配があるので、近頃は米を抜いている。そのくせ、氷の入ったグラスでは焼酎と炭酸水が弾けていた。陶器と箸の当たる軽い拍子に合わせて、咀嚼の低音が重なる。口に啜り込まれ、縦横無尽に移動する食べ物がたてる汁気の多い響き。豆腐に乗ったキムチが姿を消し、形を崩していく音がする。牧場の餌やり体験で、にんじんを食んだ馬の口を思い出した。すり潰す草食動物の歯。嚥下の休拍の裏打ちで、楕円の皿から肉が取り上げられる。一度冷えて硬くなった豚肉が引きちぎれる。頬の肉に阻まれてくぐもった粘度の高い液の様が、不快ゆえの快感を湧き上がらせる。固体も液体も噛み潰され、生々しく混ざり合い消えた。最後の一口に味噌汁を啜り、椀の底が食事の終わりを告げる。始めよりも詰まった喉で「ごちそうさま」と告げ、食器を重ねていく。それに合わせて私もタブレットを閉じた。

 流しへ向かう父に背中を向け、部屋を出る。水道を止める音が家を揺らした時にはもう、自室についていた。父の食事の音を意識し始めたのはいつからだろう。家族で食卓を囲んだ時には起こらない、私以外が眠りにつく静けさの中、横並びで聞く時にのみ衝動が私を揺する。母や弟ではそそられない。むしろ音を立てて物を食べる人は嫌いだ。食後の父から逃げた部屋で、異様に拍動する体を布団の上に横たえ考える。自分はおかしいのか。父親の食事の音に惹かれ、つい耳を傾けてしまうのは異常なのではないか。悶々と自己嫌悪をしたとて、父が帰宅していない夜には食卓に居座り続ける私がいる。あの口腔内の音響を聴きたい。それ以上でも以下でもない。雑音のない空間に映える、私のみが受け取る音像。好きでも嫌いでもない人間から発せられる音に、なぜこれほどまでに執着しているのだろうか。冷静になろうといくら思考を巡らせても、あの一時の興奮は確かなものとして私の中に沈殿していた。

「おやすみ」
 突然部屋の外から声をかけられ、我に返る。反射で「おやすみ」と返すと、早く寝るようにと穏やかな声色で促された。母と同じ一辺倒な言葉が癪に触ったので、返事をするのはやめた。身を起こし、胸元に抱いていたタブレットとスマートフォンに充電ケーブルを挿す。ついでにロックを解きSNSを更新して、手繰り寄せた毛布の中で流れる画面を見つめた。

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