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竹中半兵衛に学ぶゴールの見据え方ー介護のエンタメスマちゃんTV

こんにちは、今日は令和3年4月12日(月)です。今日はいよいよ会社設立の書類が揃ったので、法務局に提出に行ってきました。以外にあっさりと終わったので、そんなもんなのかです。まぁでもこれでようやく、ようやく始まります。

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認知症サポーター養成講座

今日はスマイルケア名古屋で、認知症サポーター養成講座というのを受講しました。これは行政が行っている認知症の理解を深めるための講座なのですが、今日いらっしゃったのは横山劇団という、名古屋ではちょっと有名な独立型キャラバンメイトの皆様でした。講座はとても面白くて寸劇は劇団というだけあって、演技がすごく上手でした。

今日は竹中半兵衛重治という人

羽柴秀吉の参謀と言えば、黒田官兵衛と竹中半兵衛で羽柴の「両兵衛」や「二兵衛」と言われてます。半兵衛とは半端な武人という意味、優しすぎるが故に武士になりきれない男って事でそんなあだ名がついてました。今日は私が愛してやまない竹中半兵衛重治をご紹介します。

天才が故の行動

元々半兵衛は美濃・斎藤道三でお馴染みの斎藤家に仕えていました。その斎藤家が隣国織田家も巻き込んで、国を上げた親子喧嘩の後に3代目となった龍興は酒と女性に溺れるダメ大名でした。半兵衛はそれを諌めようと、難攻不落の稲葉山城を自分の手勢数人で無血開城し、龍興を懲らしめるやいなや戦争は嫌いって、10代で隠居してしまいます。

三顧の礼は創作だと

当時織田家臣の木下藤吉郎は、信長に斎藤家攻略の命を受けると麒麟児・竹中半兵衛の噂を聞いて味方に引き入れようとします。ここでよく三国志の劉備玄徳が諸葛亮孔明を軍師に招いた時の”三顧の礼”と同じようなくだりがありますが、これは流石に創作だと思ってます。

木下藤吉郎の参謀に就任

三顧の礼があったかどうか分かりませんが、農民出身の木下藤吉郎の壮大な志に惹かれ参謀となります。そして、ここから後の豊臣秀吉、木下藤吉郎の快進撃が始まります。ただ半兵衛さんはとても病弱で、病と戦いながら戦場に立っていましたが、どれだけ相手に勝っても病には勝てず、36歳でこの世を去ってしまいます。

という歴史があったんです

半兵衛は戦がとにかく嫌いでした、そして戦乱の無い世を作りたい、そんな想いがいつも戦で苦しめられていた農民だからこそ理解出来る秀吉とは通じ合えたって事なんですよね。

半兵衛の苦悩

半兵衛は無意味な殺戮を非常に嫌いました。ここで無意味っていうところが戦国の世、自分が動かなくても戦争は各地で起こっている。だったら、自分だけが手を汚さないだけそれでいいのか?そうじゃない!自分が戦乱の無い世の中を作ればいい、こんな凄く矛盾しなきゃいけない事を考えていたんだと思います。参謀としてひとたび自分が戦地に赴けば自分の指示で多くの命を失う事になります。でもそれはこの世から戦を無くすため。

秀吉のもう1人の理解者石田三成

秀吉の志に賛同した人に石田三成もいます。彼も戦乱がいやで戦のない世界を求め、秀吉の懐刀として奔走しました。でも三成は、あくまでも豊臣の世に拘り、豊臣恩顧の武将は必ず味方になるから、数で勝っているから間違いないと豊臣の印籠で豊臣家臣を動かそうとして失敗、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川に敗れ去りました。

歴史にもしもはありませんが、もしも半兵衛だったら戦争が終わるなら徳川の世でもいいと思ってたかもしれません、徳川の天下で豊臣が残る方法を模索していたかもしれません。同じ人に惹かれて同じ志を持っていたはずの半兵衛と三成、2人の決定的な違いそれはゴールでした。

ゴールは大事

最初に置いたゴールが、自分の力で戦乱を無くしたいと思った半兵衛に対して、秀吉の力で戦乱を無くしたいと思った三成、決定的にこの違いがあったと思います。半兵衛にとって秀吉は手段でしたが、三成は秀吉を方法にしてしまったって所でしょうか?どちらが成功に導きやすいか、あなたはどう思いますか?そんな所で今日もご拝読ありがとうございました。

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