天文6年(1537)2月6日は豊臣秀吉が尾張中村の百姓の家に生まれた日。幼少期は明確ではなく太閤記では幼名を日吉丸とするが創作と考えられている。実父が没し継父と折り合いが悪く各地を転々としたとも。木下藤吉郎と称し遠江国の松下之綱に仕えた後に尾張国に戻り信長に小者として仕えた。
今日はBSで「どうする家康」を早めに見ました。ネタバレでも何でもないので本放送前につぶやきますが、私が今まで感じていた違和感って、今回まで秀吉登場してなかったからでした(^_^;)
天正14年(1586)5月22日は通称・蜂須賀小六こと蜂須賀正勝が病死した日。信長が美濃攻めする無名な頃から秀吉に仕えた。秀吉が家臣の中で双璧をなす黒田官兵衛の息子に小六の娘を嫁がせ結束を固めたという。譜代家臣のいない秀吉の織田家での立身出世と天下人への階段を登ることを支えた。
天文6年(1537)2月6日は豊臣秀吉が尾張中村の百姓の家に生まれた日。実父が没し継父と折り合いが悪く各地を転々とした。木下藤吉郎と称し遠江国の松下之綱に仕えた後に信長に小者として仕えた。秀吉の活躍は太閤記などで盛られたとして天下人は事実。結果を出したから盛られるわけですよね。
永禄9年(1566)9月24日は秀吉が信長の美濃侵攻拠点として墨俣に城を築いた日。今でいうプレハブ工法で組み川で運び組立てる木下藤吉郎の墨俣一夜城。太閤記の創作と言われます。秀吉の出世は戦場での槍働きで信長の目に止まったとは思えないです。自分の得意な分野で闘っていきたいものです。
永禄4年(1561)8月3日は清須城下で木下藤吉郎(秀吉)とおね(ねね)が結婚した日。二人に子はなかったが秀吉家臣にとって母のような存在。おねを気遣い秀吉をハゲネズミという信長の手紙が印象深い。おねなくして秀吉の出世は考えられないとさえ思う。パートナーの有り難さをよく考えねば。
任天堂スイッチ「太閤立志伝V」。模擬軍事演習のシミュレーションパートで、藤吉郎軍が勝てない。難しい。ネットで調べてもわからぬ。えーい、どうすればよいのじゃ!