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クローバー・ラブ・ストーリー 【短編小説】

はじめに 未来を隠す

不運な事故に遭って、ハルカゼの脳は傷つき、記憶というものがほとんどない。

足も動かない。この入院生活に入って、もう四ヶ月が過ぎようとしている。

それはキリのせいだ。キリがあんな事故を起こしたから。彼は新婚当時を暮らした懐かしい街を車で走っていて、当時の別れた妻の家の前で、人を轢いたのだった。

それはもう深い夕暮れだったので、跳ね飛ばされたのが男性なのか、女性なのかもわからなかった。

自分が跳ね飛ばした人を抱き起こしてみて、それはまさに「あの人」だと気づいた。

そう、キリは「別れた妻」を車で轢いてしまったのだった。

病院の居心地はそんなに悪くない、とハルカゼは言う。

それもずいぶんと久しぶりの会話だ。もう八年ぶりの再会。ベッドの上での再会。事故の加害者と被害者としての再会。

でもハルカゼにはキリのことはわからない。脳が損傷して、キリのことは「知らない誰か」としてしか認識していない。

二十四時間の完全介護だし、時々、誰かは訪ねてきてくれ,ハルカゼは何やら談笑めいたこともする。

もちろん動かなくなった足のリハビリもする。このめちゃくちゃになった記憶や思考をいろんな言葉で、思い出させようと言葉が投げられたりもする。

でもダメだ。ハルカゼの足もよくならないし、思考回路も復調しない。まるで来る日も来る日もハルカゼは夢のなかにいるみたいなのだろう。

時間も途切れ途切れに思え、「XXよ、憶えてる?」と話しかけられても、首を振るしかない。愛想笑いはよくする。だから、自分も嫌われていないはずだ、とキリは思う。

ハルカゼは自分ことをまだ少女だと思えるし、もう老人だとも思えるし、みんなの言う通り、三十台だとも思えるのだろう。

彼女の心を思うと痛む。あの、ふたりの駄目になった新婚生活。まだ結婚前の親密な交際。それらの記憶はすっかり消え失せてしまったのだ。

いや、彼女の脳のどこかにはまだ残っているのかもしれない。でもそれを復活させることは困難だということだ。

そしてキリのことを思い出すと、当時の「失敗の記憶」も蘇り、またキリを「なじる」かもしれない。

あの結婚生活を終わらせた八年前のように。

だからどうしようもなく汚れた考えかもしれないが、彼女とこういう状態で会えたことは、なんだかキリのなかでも小さな小さな救いがないわけではない。

まったくどうしようもなくキリは汚れた自分の考えに驚いたりもするが、そう思わざるを得ない。

ハルカゼはキリにいつも感謝をしている。夕暮れの薄暗い病室でそっと言葉を話す。

「あなたには感謝しているの。いつもここに来てくれてありがとう」

「仕事帰りに寄っているだけですよ」

「でもありがとう。なぜかこんな夕暮れにあなたといると心が和むの」

「それはよかった。でも……」

「でも?」

「僕は感謝されるような人ではないんです」

「感謝してはいけないの?」

「それはとてもありがたいけど……僕にはふさわしくない」

「ふさわしくない?あなたといると心が和むということはご迷惑なのかしら」

「いえ……」

「すっかり私は、記憶をなくす前にあなたに恋心を抱いていたのかと思ってたわ」

「どうしてそう思うんです?」

「なんだか、しっくりくるんです。まるで恋人か、夫婦みたいに」

それを聞いてキリはうかつにも声を出して笑ってしまった。

ハルカゼもそれに合わせて照れくさそうにくすりと微笑んだ。

ふたりの微笑みはなんだか別世界に降る静かな雨のようだった。

キリとハルカゼの心はそんな別世界の雨に濡れ、雨の匂いを感じ、雨の音にいつまでも耳を澄ませた。

ハルカゼはキリに頼みごとをした。

「そうだ。キリさん?」

「なんです?ハルカゼさん?」

「私の家へ行ってきてほしいの」

「何か忘れ物でもあるんですか?」

「いえ。あるようなないような……とにかくキリさんに私の家に入ってもらうことに意味があるんです」

「ふむ。そういう勘がするということでしょうか?」

「そう。あなたが私のかつての家に入る。私の心には秘密がいっぱいつまっていて、その場所にあなたが侵入する。あなたに見てもらいたいの」

「何を?秘密を?」

「そう。女の秘密。心のなかの秘密。なんだかわくわくしちゃう」

「そうかな……」

「あなたにとっては苦しいこと?」

「うん。そうです」

「なぜ?」

それは僕が君の前の夫だからだ、とはキリはまた言えなかった。

何もかもが久しぶりの家。

キリが出て行ってから、ハルカゼがひとりで暮らしていた家に再び、帰る。

帰るという表現は適切なものかどうかわからないが、キリはその朝、その家の玄関のドアをノックして、ただいま、と言ってみた。

もちろん返事はない。

けれどハルカゼの返事をどこかで期待している。

その声は、現在のハルカゼなのか?それとも過去のハルカゼなのか?

ジーンズのポケットから預かっていた鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

手ごたえがあり、それ、は開かれる。

ハルカゼの心の秘密のなか、か……、とキリは思う。

懐かしくもあるが、自分の知らないものを何個もみつけるだろうし、それが少し怖い。

家具の配置もあの頃とは変わっているだろう。

それに傷つくキリがいる。

どうして傷つくのだろう?

そうキリは思いながらひとつひとつの部屋をまわっていった。

応接間を物色したあと、キッチンに入る。

そこで食器たちを確認する。

もちろんキリの使っていた食器はもうない。

すべて新しいものに変えられている。それもペアで揃えられている食器はない。

カップもソーサーもグラタン皿もお茶碗もナイフもフォークもひとつずつしかない。

客人用の食器もあるにはあるが、普段使っていた食器は単体のものだけだ。

冷蔵庫をあける。

と、少ない食品が並んでいる。

ミルクもまだ入っている。(これは多分古いものなので、キリは流し台に中身を捨てた)

白い液体が排水口に吸い込まれていくのを、じっと見つめた。

それからお湯を沸かし、ハルカゼのコーヒーカップでインスタントコーヒーをつくり、食卓に座ってゆっくりと飲んだ。

食卓の上にメモ用紙が残されていて、そこには「水曜日、バター、牛乳、安い」とある。

そのメモをキリはハルカゼからの秘密の手紙のようにじっと見る。

二階のハルカゼの寝室。

そこはかつてのキリとハルカゼの寝室だった。

その部屋に入るとキリは息がつまるような感覚に襲われた。

涙が瞳に浮かんだけれど、流れることはなかった。

ベッドに寝転んでみる。

スプリングの具合を確かめ、このベッドは新調されたものだとわかる。

そりゃそうだよな。

いくらなんでも同じベッドを使い続けるわけにはいかなかったのだろうな……。

ベッドの脇の小さな本棚には何冊かの本があった。

何気なくキリはその本たちをめくっていった。

ポリス・ヴィアンの『うたかたの日々』のを捲っていた時、そこに何かが挟まっていることに気づいた。

最初はそれがなんだかわからなかった。

それは小さな四つ葉のクローバーだった。

あの、幸運の印である、

四つ葉のクローバーが小説に挟んであったのだった。

そのことにキリは喜んだ。

病室のハルカゼへのおみやげになるとも思えたし、何よりこれは自分への嬉しいプレゼントなのだ。

この家に侵入して来て、四つ葉のクローバーをみつける。

そのこと自体がなぜかキリには救われる出来事だった。

次の日、キリはハルカゼに寝室でみつけた四つ葉のクローバーを見せた。

ハルカゼはそれに喜び、こう言った。

「まあ、かつての私は、なんて素敵なプレゼントをくれるのでしょう。この四つ葉のクローバーはあの小さな家で誰かに見つけられることを待っていたのね。それって素敵ないたずら、じゃない?」

「君のいたずらだよ」

「そうね。うふふ。私のいたずらね?」

「そうだよ」

「それをあなたが見つけたのね?寝室の本箱のなかの小説のなかから」

「そうだよ」

「素敵」

「でもちょっと待てよ。寝室の本に挟まっていたということは、これは栞にして君が使っていたものかもしれない……どこまで読んだかチェックするために」

「そうかもしれないわ」
「いや。そうじゃないな、きっと……これは僕へのプレゼントでもあるんだものな」

「そう思った?」

「ああ。この四つ葉のクローバーを見つけた時、そう思ったよ。何かのメッセージが届いたんだって」

「何かのメッセージ……素敵」

「きっとこれは何かいいことが起こるに違いないね」

「そうね。あなたはいいことが起こると嬉しい?それとも私のこの状態が悪くなるのが嬉しい?」

「状態が悪くなるのは、嬉しいわけないじゃないか……」

キリはそう言って、本当にそう自分は感じているのか、心で確かめた。

うん、ハルカゼが悪くなると悲しい。

「それか、この四つ葉のクローバーは私が死んで身辺整理をする人のために隠しておいたものじゃないかしら?私が生きていた証として……」

「おい。やめなよ。君が死ぬなんてことを言って欲しくないよ」

「私は死ぬのは怖くないの」

「よしなって……」

沈黙が訪れた。夕陽が病室の窓から差し込んでいる。

キリは脳裏で事故のことを思い出した。

そしてハルカゼはひょっとして事故の加害者がキリであることを知っていて、暗にこう思っているのではないか。

心の奥のどこかで。第六感というやつかもしれない。

本当はハルカゼはこう言いたいのじゃないか、とキリは心で思い描く。

<あの時、本当は私は死んでいたかもしれない。でもあなたはもしそうなったとしても平然としているでしょう。あなたは、きっと私を殺そうとしたのよ。過去に私を殺したいくらいに憎んでいたのでしょう?>

沈黙を破り、次に口を開いたのはキリである。

「もっと明るく考えよう。ずっと過去のことだ。ある日、庭で君は四つ葉のクローバーを見つけた。とてもうれしかった。この嬉しさを誰かに伝えたかった。あるいは伝えたかった相手は未来の自分だったのかもしれないよ。やがて四つ葉のクローバーを隠したことを忘れてしまうハルカゼ。その忘れてしまう未来のハルカゼへ向けての自分からのプレゼントなのかもしれない。過去から未来に届けられる暗号みたいなもの。そう考えてみようよ」

「そうね。それをあなたが見つけた」

「ああ」

「暗号の意味はわかる?」

「それはわからない」

「ねぇ」

「何?」

「だとしたらあの小さな家にはもっと四つ葉のクローバーが隠されているんじゃないかしら?もっともっと過去の私はいたずらを仕掛けているんじゃないかしら?」

「そうかもしれない。もっと四つ葉のクローバーを探そう」

「見つけて」

「うん」

「過去と未来を……」

そう言ったあと、ハルカゼは目を閉じすやすやと眠り始めた。

キリは一日のほとんどの時間をハルカゼの家で過ごすようになった。

仕事を終えるとハルカゼの家へ向かい、そこで家のなかを冒険し、ベッドで眠り、朝起きて仕事に出かけるようになった。

それには四つ葉のクローバーを探すという以外に理由もあった。

入院しているハルカゼの容態が悪くなっていったのだ。

かつての妻の笑顔がなくなり、だんだん言葉の数が減ってくる。

意識も混濁する時間が多くなる。

キリはそれが怖くて、淋しくて、この家に泊まりに来るようになった。

四つ葉のクローバーはまた見つかった。

今度は応接間で見つけた。

(部屋の隅のローテーブルにコーヒーカップが裏返しにして置いてあった)

そのカップを取り除くと、ひとまわり小さなコーヒーカップがあった。

その小さなカップを取り除く。

そこには四つ葉のクローバー。

「また、見つけた。今度は本に挟まれていたんじゃない。コーヒーカップに隠されていた。ハルカゼ?確かに過去の君は、未来にメッセージを残すいたずらをしていたようだぜ!本当に素敵ないたずらじゃないか!なんて君は可愛いんだ!素敵な女性だ!」

大声を出してキリは叫び、そしてぽろぽろと泣いた。長い時間をかけてぽろぽろと泣いた。

キリの心も、もう弱くなってしまっていた。

次の日の夕暮れ、キリはその二枚目の四つ葉のクローバーを持って、ハルカゼの病室に勢いよく入った。

ハルカゼは小さく微笑んだ。

キリも小さく微笑んだ。

ハルカゼの手に四つ葉のクローバーを握らせた。

「また見つけたよ」

しかしその返事は返ってこなかった。

ハルカゼはそのまま白目を剥いて、昏睡状態になってしまった。

また悪くなってしまったハルカゼの容態を良くするには、また四つ葉のクローバーが必要だ、とキリは思った。

ハルカゼの家の隅から隅まで探してみよう、と思った。

どこか、思いがけないところに過去のハルカゼは「未来」を隠しているのかもしれない。

そうすることだけが、キリのできることのように思える。

家のなかを探しながら、キリはここで暮らしていた自分のことを思い出す。

ほんとにダメだった夫としての自分。それは若さ、なのか。

まだ傲慢さ、が残っていたのか。

そんな過去たちの囁きに包まれながら、四つ葉のクローバーを探したけれど、いっこうに見つからない。

キリはこの家に屋根裏部屋があることを思い出して、そこに侵入する。

言わばそこは物置だ。

ハルカゼの普段、使わないものが集まっている。

いろいろ物色してみて、ある箱をみつける。

それを開けると、たんまりと写真が入っている。

新婚時代のキリとハルカゼの写真もある。(キリが映っているけれど、顔をくりぬかれている写真もある)

写真には落書きも書いてある。

「好きよ」とか、「もう嫌いな人」とか、そういった言葉だ。

箱の底にはこんなメッセージが書かれてあった。

「もし私が死んだら、私との思い出を楽しんで。そしてあなたの人生の邪魔にならないように、処分して。ねぇ、でも、キリ?柱の傷は覚えていてね・・・ハルカゼ、24歳」

柱の傷?

すっかりキリは柱の傷のことを忘れてた。

キリはあわてて屋根裏部屋から出てきて、玄関に向かった。

玄関の出口の脇にその柱はあった。

そこには新婚時代のキリとハルカゼの身長に傷がつけられていた。

小さなふたつの傷。

それはどちらかが先に死んでいなくなったとしても、存在を実感できるようにするためだった。

そのハルカゼの身長の傷をキリは指をなぞると、胸が激しく痛むのがわかった。

それからしばらくして家の電話が鳴った。

取ると、それはハルカゼの病院からだった。

キリは、質問されたが、身内のものです、と言った。

「ハルカゼさんの容態が一層悪くなりました。血圧がどんどん下がってしまっています。危険な状態です。一刻も早く病院にいらしてください。お願いします」

その夜はとても静かな雨の降る夜だった。

キリは病院には向かわずに、応接間のソファで一晩を過ごした。

もちろんハルカゼがその夜、死んでしまう可能性だってある。

もしそうなれば実質、ハルカゼを殺したのはキリだということになる。

それはわかっているが、この家からキリはもう出たくない。身体の力が抜けてしまって、怖くてどうしてようもない。

出たくない。

窓を開けていたので、風がそよそよと部屋を舞った。

部屋の電気を小さくしていると、カサカサと窓の外で音がした。

キリは音に気づいたけれど、身を起こす気力がない。

カサカサという音の正体はある動物が庭を歩いていたためだった。

動物は窓が開いていたので、ゆっくりと部屋のなかまで入ってくる。

キリはその光景をぼんやりと眺めている。

その部屋に入ってきた動物とはバンビだった。

野生なのか、動物園を抜け出してきたのか、原因はわからない。

枯葉色の毛並みの綺麗な子供のバンビだ。

きょろきょろと部屋をつぶらな瞳で見渡している。

キリはそのバンビに小声で話しかける。

「君は誰だい?」
バンビは答えない。

キリはゆっくりと起き上がり、テーブルの上のクルミパンを契って、部屋の中央に撒いた。

すると、バンビはすたすたと部屋の中央まで入ってきた。そしてクルミパンを物色した。

「君は綺麗な子だね?どこから来た?」

バンビは答えない。クルミパンを必死に食べている。

「ミルクは飲むかい?」
キリが立ち上がると、バンビは大きな爪の音をたてて、すたすたと入ってきた窓まで逃げた。

キリはキッチンに向かい、小皿にミルクを注ぎ、また応接間の中央まで戻り、そこに小皿を置いた。

今度はソファに座ったまま、バンビを手招きした。

小さなバンビはまた部屋の中央までおそるおそる入ってくると、ミルクを飲み始めた。

キリの顔に少し笑みが戻った。手を伸ばすとバンビの身体に触れることができた。

ミルクを飲み干し、クルミパンを食べてしまうと、バンビは、また入ってきた窓から外へと歩いて出て行った。

キリはそのバンビの後ろ姿を目で追った。

そしてまたソファに横になって朝まで眠った。不思議と深く眠れた。

朝になると、またハルカゼの病院から電話があった。

「血圧が安定しました。とりあえずの危機は脱しました」

数年後。

それが自然の流れのように、ハルカゼは退院したあと、あの小さな家でキリと生活を共にするようになった。

ハルカゼはもちろん車椅子の生活。

そして記憶は戻らず、意識は時々混濁したまま。

この家からキリは毎日、仕事にでかけた。

しかしもう車は使わない。

駅までの道を歩く。

その道中に個人経営の日曜大工店があった。

そこの店主と挨拶を交わす。

「よう、キリ。君が十年ぶりにこの街の住人になってくれて嬉しいよ」

「ありがとう。僕もおじさんの顔をまた見れて嬉しいですよ」

「そうか。そうか」

「それより僕はおじさんの店に今度、用事があるんです」

「わかったよ。いってらっしゃい」

「いってきます」

「おう」

これも自然の成り行きなのかもしれないが、

キリとハルカゼはまた籍を入れた。

再婚である。

最初、ハルカゼが「籍を入れましょう」と言った時、キリはまた意識が混濁しているんだと思った。

だって、君を事故に遭わせたのは僕だし、昔、僕たちは一度結婚して離婚している、と正直に打ち明けた。

それでもいいの、とハルカゼは言った。

「はじまりは事故という不幸だったかもしれないけれど、それがいつか私たちの愛を育む幸福に変わっていったもの。こういうこともある。とても不思議なことだけれど、こういうこともあるの。時間の流れはとても不思議なもの。だからお願い。あなたがともに生活を続けるなら、私と籍を入れて。私の病院に毎日通ってくれたあなたに、本当はあの頃からそう言いたかった。あら、同じ人に、何度も恋してはいけない?」

キリは首を振って、くすくすと微笑んだ。

「何?どうして笑うの?」

「君と僕の関係さ」

「それがおかしいの?」

「そうだよ。籍の話までしている。事故の加害者と被害者が……」

「そうね。おかしいわね」

それはテーブルで夕食をともに摂っていた時のことだった。

それは冬で冷たい空気が家のなかを包んでいた。

料理から湯気が昇る。

「おかしいね」

「おかしいわ」

それから試行錯誤の末、何ヶ月もかかって日曜大工はできあがった。

それは小さな木製の椅子だった。

強度の面で素人がつくる椅子はいささか心もとなかったので、日曜大工店の店主に何度もアドバイスをもらい、補強された。

椅子が完成すると玄関の入り口の隣に置いた。

キリはハルカゼにこう説明した。

「急に椅子をつくりたくなったんだ。頑丈につくってある。これは誰のための椅子というわけじゃない。傷ついた誰かのための椅子なんだ」

ハルカゼはにっこり微笑んだ。

「急に作りたくなったのね?」

「そうだよ。とても不思議だよ」

「そうね。私も不思議なことをいっぱいしたい」

「若い時も君はそんなことばかりしていたんじゃないかな?」

「そうかもしれない。私、時々考えてわくわくするの。この家にはまだキリも私もしらないどこかに四つ葉のクローバーが隠されているのかもしれないわ。それを考えるとわくわくするの」

「僕もそのことをよく考えるよ。きっとまだこの家には四つ葉のクローバーは隠されてる」

「さて、それは私にもわからない。四つ葉のクローバーとはいったいなんなのでしょう?」

「なんだろうね」

「ただそれを探し続けるの。私たちは一生探し続けるの」

キリはハルカゼの車椅子を押して、玄関から出た。

そこにはキリの作った椅子が置かれてあった。

「素敵な椅子・・・」

しばらくハルカゼはそう言って眺めていたが、キリに自然に手を伸ばす。

座るのを手伝ってほしいのだ。

それと同時にキリもハルカゼに手を伸ばし、ふたりはたよりない空中で強く手を取り合った。

キリは「別れた妻」を車で轢いてしまった男だ。

キースジャレット 「ケルンコンサート ソング1」 youtubeより



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