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アメリカ文学との出会い - 北米への憧れ

 大学1年の夏休みに、米国の作家モナ・シンプソンの 「ここではないどこかへ」(原題 “Anywhere but here” 柴田元幸訳)という本に出会った。自由奔放な母親アデルが、娘のアンを女優にして新しい生活を手にするために、夫を捨て、中部の田舎町からカリフォルニアに車で向かう道中を描いた物語だ。
 無断で持ち出した夫のクレジットカードを頼りに、なんとか旅を続けるふたり。まだ13歳のアンにとっては母親についていくしか選択肢がなく、そこには親子の葛藤があり、カリフォルニアに近づくにつれアンが成長していき、少しづつ状況は変わっていく。
 『アイスクリームコーンが食べたいわ。目を大きく開いて、<ハワード・ジョンソン>がないかどうか見ていてちょうだい。』
 アデルがいつも言うこの台詞が、私にアメリカという広大な土地への憧れを掻き立てた。この台詞のどこが?と思われそうだが、私にとっては「アイスクリームコーン」という響きが特別に感じたのだ。それがアメリカの象徴であるかのように。 広大な平野を走り抜けていく赤いコンバーチブル。 そして、大陸を横断する旅で描き出されるアメリカの風景。そこへ行かなければ、と思った。
 (この本は柴田さんの翻訳も素晴らしい!)

 この本に出会う前に、アメリカという国に初めて憧れを抱かせたのは、ありきたりだが、映画 「ティファニーで朝食を」だ。当時(1990年代)は大学の図書館にビデオを鑑賞できる宇宙船みたいなオーディオチェアがあって、そこに座って初めて観たオードリー・ヘップバーンに魅了されてしまった。それと同時に、ニューヨークへ行ってティファニーの前でクロワッサンを食べるということが、私のひとつの目標になった。実現させてみると、57丁目の道端のスタンドで買った、あまり美味しくないクロワッサンとコーヒーを、ティファニーの前でかじっている旅行者でしかなく、味気ないものだったが。

 それから大好きだった小説が、ニューヨークを舞台にしたポール・オースターの小説 「ムーンパレス」(原題 “Moon Palace”)。コロンビア大学に通う文無しの学生が、ある奇妙な仕事を通して成長していく話で、彼の他の作品もブルックリンを舞台にしているものが多く、ニューヨークが好きな人にはオススメ。

 もうひとり、好きだった作家はジョン・アービングで、「ガープの世界」(原題 ”The World According to Garp”) は小説、映画ともに名作だと思う。空想的で、素晴らしい独創性のある物語。私の生き方は潜在的に、主人公の母親である、フェミニストのジェニーに影響されているかもしれない。
 
 そして、何にも増して私を動かし、アメリカへの航空券を手に取らせたのは、ジャック・ケルアックの小説「路上」(原題 ”ON THE ROAD”)だ。私がビート文学に傾倒していったきっかけにもなった本で、今の若い人たちは読んでいるのかな。読んでいたら、衝撃に押されて、みんな旅に出てしまうはずだけど。

 米国には実際に14年間住んだ。(南米もアメリカだとすれば、20年になる。)その間に、私が憧れていたアメリカは、映画や小説の中のアメリカだったということに気付いた。自分の想像で勝手に頭の中に作り上げたアメリカ。現実は想像とは違ったけれど、期待を裏切られたとは感じていない。ただ、違っていたというだけ。

 最後に、「路上」の終わりの部分を引用させてほしい。あまりにも美しい文章なので。(福田実さんの訳も素晴らしい!)

『アメリカに太陽の沈む時、ぼくは古い壊れた河の桟橋に腰をおろし、遠くニュージャージーを覆う長い長い空を見つめ、太平洋沿岸まで一つの信じがたい巨大なふくらみとなってうねっているあの生々しい大陸を感じ、そして通っているすべての道や、その広大な国の中で夢見ている人々を感じる。子供たちを泣かせておくあのアイオワでは、いまごろ子供たちが泣いているにちがいない。神はプー・ベア(『熊のプーさん』)だということを知らないのかな。宵の明星がそっと出て大草原にきらめく光をおとしているにちがいない。宵の明星がかがやくのは、大地を祝福し、あらゆる川を闇で包み、峰々を覆うて最後に海岸を覆う完全な夜の到来のちょっと前なのだ。そして誰もが、みすぼらしく年をとるということのほかに誰に何が起るか分からないのだ。そして、ぼくはディーン・モリアーティのことを考える、とうとう見つからなかったあの老ディーン・モリアーティ親父のことを考え、そしてまた、ディーン・モリアーティのことを考えるのだ。』

(「路上」河出文庫 ジャック・ケルアック 著:福田実 訳)

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