「ベッキーと未知との対話」を見て、思ったこと、考えたこと

今回は、先日、深夜にテレビ放送された「ベッキーと未知との対話」という番組の感想を書いてみたいと思います。

最初に、この番組について本当に簡単に説明をさせていただきますと、

タイトルにもある、タレントであるベッキーさんの他に、

全盲で女子大学生の関場さん
(通称ジョニー。性同一性障害等ではなく、単なるあだ名)
聴覚障がい者、そしてゲイである、学校の講師をしているかえでさん
80歳で、歯肉がん患者である泉さん
英語教師をしているディラノさん(日本語での会話は複雑でなければ可能)
車椅子ジャーナリストの啓太さん

という5人を加えた、バックグラウンドがバラバラの6人が、一泊二日で一枚の大きな絵を描く、というドキュメンタリー番組です。

この後、感想を書いていきますが、非常に長くなってしまいましたので、先に構成をお伝えしておきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<前半>…この番組を見て、私が「ダイバーシティ」ということについて考えたこと、そして、この企画について考えたこと

<後半>…この番組内での具体的なエピソードを通して、私が感じたり、考えたりしたこと
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ざっくりこんな感じで書いております。
どんな番組だったのかなー、ということを知りたくていろんな感想を探している、ということでしたら、前半はまるっと必要ないかもしれないので、後半を読んでいただければ十分かもしれません。

では、以下、<前半>です。
(出演者のお名前については、適宜敬称を略させていただきました。)

この番組を見て、現状の日本で言われている「ダイバーシティ」とは、「一般的、標準的、普通、に分類されるであろう大多数の人たち」が、「そこから外れている人」に対して、「理解を示してあげて」、「仲間に入れてあげる」という意味合いに近く取られてしまう場合も、多々あるのかもしれないな、と、改めて漠然と感じました。「普通」というものからの、上から目線が取れない関係性とでも言えるでしょうか。

少し話がズレてしまいますが、こういう「普通」という空気があるから、地毛の茶髪を「個性」と取るのではなく、染髪禁止と言いながら、地毛が茶色の生徒には平気で「黒に染めろ」と言ったり、「地毛が黒くないなら仕方ない」から証明書を出せ、と言うような、本来の"diversity"とは真逆のことも普通に起きてしまうのでは…というようなことも思ったりしました。

(誤解のないように書くと、この番組がこういう空気だった、というわけでは全くなく、この番組を見たことによって、こういう、世の中に蔓延している前提のようなものが浮き彫りになった気がする、ということです。ここは本当に誤解してほしくないので、強く主張しておきます。)

※以下、少し追記させてください。※

私がなぜこういうことをこの番組を見て思ったのか、何がもやもやしていたのかが少し言語化できそうなので、追記します。

この番組を私のようないわゆる「普通」に属する人が見る際、参加者6名の中で自分を重ねやすいのは、ベッキーということになると思います(ハーフだとか、タレントだとかは、さほどこの投影には影響しない)。

番組タイトルが「ベッキーとその他」を意識させるものになってしまうのは仕方がないにせよ、なぜ当然のように、ベッキーがあの場を仕切る必要があったのでしょうか?
「普通の人」が「そうではない人」(すみません、どちらも便宜上の表現です)を取りまとめる、という構図だと、どうしても、上記で述べたような「ダイバーシティ」感を想起させてしまうような気がします。

番組成立の保険や担保としてベッキーを入れるのは理解できますが、プロジェクトリーダーはくじ引きで決めて、みんなで協力していく、とかでもよかったのではないでしょうか…。

※追記終了※

海外で言うところの”diversity”というものは、もっと、「個々がバラバラであることを当たり前の前提として、個々を尊重するもの」として語られるもののように思います。しかし、「髪や目は黒、肌色もだいたい同じ、日本語が話せる、宗教に関しては割と無頓着、五体満足」というものが簡単に「普通」と規定されてしまい、そしてそこに属する人が「マジョリティ」を容易に形成しうるこの日本においては、社会全体がその境地に至るのは、まだまだ遠いことなのかもしれません。

とは言え、日本でオリンピック、パラリンピックの開催が迫る中、まずは最初に書いたようなレベルの「ダイバーシティ」を、「普通」に分類されがちな一人ひとりが、上から目線を外し、ごく普通のこととして実現していくことは、差し当たっての急務ではないかとも思いました。

さて、この番組の感想を書くにあたり、先にあまり他の人の感想を見ない方が良いかな、と思っていたのですが、つい、ツイッター等で少し覗いてしまいました。すると、ベッキーの、他のメンバーへのコミュニケーション能力に対して、「すごい」とか「さすが」とか書かれているものが結構見受けられました。

…本当ですか?

私は正直、全くそうは思いませんでした。なぜなら、彼女は当たり前のことをしているだけだとしか思わなかったからです。
彼女が凄かったのは、番組として成立させられる内容を時間内にきっちり作ったタレントとしてのプロスキルであり、各メンバーへのコミュニケーション能力ではけしてないと、私は思いました。

元々、たいていの人でも、あの対応は自然と出てくるものなのでは?と思うのですが…。この考え自体が甘いのでしょうか。
普段の生活で、左利きの人の不便さを慮ったことや、花粉症の人の辛さに思いを馳せて心配したということ、ありませんか?
今回ベッキーがしたことは、本質的にはそれらと何ら変わらないことだと思うのですが、違うでしょうか?
(しかも、集められた全員が、場を仕切る立場になる人が誰かということを前もって理解している、というお膳立てまであれば、尚更普通のことなのでは…と思ってしまいました。)

番組のほぼ最後に「どうしたらベッキーさんみたいにできますか?」みたいな質問を投げかけられたベッキーは「私なんて全然」とおっしゃっていましたが、多分謙遜でも何でもなく、普通のことをしただけだと本当に思っておられたのではないかと思います。

この質問については、彼女の「優しさは想像力」という、この番組を包括するような言葉を引き出したという意味ではとても重要だったと思いますが、と同時に、あまり上手くない質問だなあとも思ってしまいました。

なぜなら、この質問によって、「誰もが、程度の差はあれ、自然とできるのではないか」と私が思っていたことが、「ベッキーさんだからこそできたんだ」という、若干特別なことのように見えてしまうような気がしたからです。これはちょっともったいなかったのではないかと思いました。

まあ、ここまで書いたのでもう一歩踏み込んで書くと、そもそも論にはなってしまいますが、こういった番組を作るのであれば、出演者の立場の軽重には差をつけない方が良かったのではないかとも思いました。

タレントは入らず、ベッキーのポジションには、いわゆる、最初に書いたような「普通」に分類されるであろう、有名でもなんでもない一般人を入れる。
その上で今回と同じことをやって、その様子を追いかけた方が、より多くの「多数派を形成する普通」の人に、より「自分ごと」として考えるきっかけになったのではないか、そんなことを思いました。

個人的には、それで例え今回のような絵がきっちりできなくても、リアルなドキュメンタリーとしてそれはそれであり、と思う派なのですが、まあ、番組として見られるようなものに成立させられるかどうか、という担保が一切無くなってしまうので、制作側としてはとんでもない冒険になるし、現実問題として難しいのかもしれませんが…。

ちなみに、この番組を視聴するにあたって、二回くらい普通に見た後、目をつぶって番組を全部見る、音を消して番組を全部見る、ということをやってみました。

私は今まで、「目が見えないことは、耳が聞こえないことよりも状況判断が大変なのでは?」というイメージを勝手に持っていました。でも、今回こういうことをやってみて感じたのは、耳が聞こえない方が、大勢のコミュニケーションに入っていく上では、より困難を伴うのかもしれない、ということでした。

今回、聴覚障害のかえでさんが使われていた「UDトーク」という、音声を文字化するアプリは、手話通訳士の方もおっしゃっていたように、同時に多くの言葉を拾うことはできないですし、その文字化されたものを読む必要があるため、その間は周りの様子に視覚を働かせる度合いはグッと減ります。そうなると、瞬時に得られる情報というものは、かなり限られてしまうと感じました。しかも、自分の意見を発信するのにも、障壁が大きい(まずは発言しようとしていることを気付いてもらわなくてはならないし、自分の意見を伝えるのにも、筆談等時間がかかる)。これは、かなりコミュニケーション上でのストレスが大きいぞ、ということを知ることができたのは、この番組を通して得ることができた貴重な経験でした。

それを踏まえて、この番組をより有意義なものとして発信できないだろうか、と考えてみると、前もって告知をした上で、番組の中で一定時間、画面を真っ暗にして音しか聞こえないという時間を設けてみたり、一定時間音が流れず、右下に実際のその時のUDトークの画面を表示する時間を設けてみる、全員の会話を、日本語ではない言語に吹き替える時間を設けてみる、といったことを行って、擬似的にでも、参加者のいろんな立場を経験できるようにしてみると良いのではないかと思いました。

ただし、このアイデアを実現してみても、「長く生きてきた」「ハーフとしていじめられた」という人生経験や、「LGBTである」というメンタリティに関わるようなことは、どうしたって、共有することは難しいんですよね…。でも、こういう「その人の立場になって思いを馳せる」と簡単に言ってしまえないようなことも、確固として存在するんだと自覚すること、そして、そういうことに対しても、それでも思いを馳せることを忘れてはいけない、ということを改めて思い出す、ということだけでも、大きな前進につながるのではないかと思いました。

…以上、やっと、<前半>終わりです。
大変長い私の見解発表にお付き合いいただきまして、
ありがとうございました。

まだ読んでいただける方は、以下、<後半>となっております。

<印象的だったエピソード、発言について>

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ベッキーが、絵の構想を考えた際に、空白の部分を作ろうと提案したこと

→参加者も絶賛していたけれど、これはとても良い試みだと私も思いました。絵が完結しておらず、自分も参加できる余地が残されていることによって、狙い通り、見た人が他人事だと捉えずに、自分もいろいろと考えるきっかけができると思います。

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夕食のバーベキューで、ディラノが「サバを焼きたい」と言い、みんな怪訝そうな反応をしていたのだけれど、いざ食べてみるとすごく美味しくて、ベッキーが「バーベキューでサバ、広めたい」とまで言ったこと

→自分と違うさまざまな人と接することは、先入観を外し、新しい価値観に触れ、可能性を広げるチャンスを作ることにつながる、ということを図らずも象徴することとなった出来事だったと思います。

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ベッキーが昔、「外人がうつる」と言ってイジメられていた時、そこまで傷付かずに済んだのは、母親が「うらやましいなあ、私もハーフになりたいなあ」とずっと言い続けてくれたおかげだ、という話

→アイデンティティーに誇りを持てるということは、とても大事なこと。もしそれが原因でいじめてくる人がいたとしても、そのアイデンティティーを全肯定してくれる存在がいれば、いじめに負けることなく、誇りを持ち続けることができる。

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啓太さんが「日本でダイバーシティを認めるという活動が増えている中、そこまで実社会、生活面が変わっているとは思えない」「日本は他を認めるのが苦手」と言ったこと

→やはり、日本は「普通」に属する人間が非常に多いと認識される環境ではないかと思うので、「他を認めること」へのハードルが多少高い気がします。また、日本においては「ダイバーシティ=不自由がある人への配慮」という考え方も存在している気がするので、もっと根本的に「ダイバーシティ」とは、ということについて、一人ひとりが考えを深める必要があるのではないかと感じました。

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ディラノが「日本で”ダイバーシティ”と聞くと、人種やLGBTの話だと思ってしまうけれど、本来はもっと自然界における話だと思う」と言っていたこと

→これは本当にその通りだと思いました。本来、私たちは、一人として同じ人間はいないのだから、誰か他人がいる環境で生きているというだけで、ダイバーシティの中で生活していると言えると思います。
普段からそういう意識でいれば、いわゆるハンディキャップを持った人たちに対しても、それはその人の「個性」であると、もっと自然に受け入れられるようになるのではないかと思います。

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ベッキーの「人って自分で境界線をつくっている気がする」「尊敬もしながら目線を同じにする事が大事」という発言

手話通訳士の方の「コミュニケーションは一方通行ではないから、相手が受け入れてくれるという安心感がないとできない。」という発言

→段々と打ち解けていくうちに、
ジョニーが自分からディラノに「ちょっといいですか?」とヘルプを求めたり、
「五右衛門風呂」の話になった時に、ディラノ以外の全員が「あ、これはディラノには説明が必要だな」と瞬時に理解して説明を始めたり、
仕上げの花を描く時になって、泉さんが「絵具で描いたんじゃ、触れないじゃない?」と言って、紙で立体的な花を作ることを提案していたり、
「お疲れだなあ、ケアしてあげなきゃな」と周囲に思われていた泉さんが、翌朝元気いっぱい積極的に動いているのを見て、啓太さんとジョニーが「泉さん絶好調。昨日のは何だったのってくらい」「朝だからかな」と、愛あるヒソヒソ話をしていたり…
といったことが、どんどん出てきていました。
これらのことは、例え短時間であっても、お互いを理解し合おうとし、お互いがどんな人であるかを知っていくという過程を経ることにより、まさに、安心感、信頼感といったものが生まれたからこその賜物だと感じました。

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ディラノが「ケアしすぎではないのか?いろいろと様子を聞くことで心地悪くさせていないか?やり過ぎてはいないか?と考えてしまう。境界を見極めるのが難しい」と言っていたこと

→これは、とても大切な示唆に富んだコメントだと思いました。相手の立場に立って想像するということは大事だけれど、誰しも相手本人になることは絶対不可能。
思いやりが、押しつけになってしまうのは、お互いに悲しい。
そうならないためにも、お互い、ただ思いやるだけではなく、自分はこう思っているんだということも、きちんと相手に伝える必要がある。これはとても大切なことだと思いました。そして、伝えても大丈夫なんだという安心感の生まれる信頼関係を築くということも、地道に行わなければならないと感じました。

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ジョニーの「どんな人とでも、話そうという気持ちがあれば話せるんだな」「話したい気持ちがあれば、多分何とかなる、というくらいの気持ちだったのが、絶対何とかなるって風にちょっと進んだ」という発言

→これは、この番組を見る事で企画を疑似体験した視聴者も、心から実感できたことだと思います。
ジョニーは「確信した」と言っていたけれど、これは同時にこの企画の「核心」に近いものだったのではないでしょうか。

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「優しさは想像力」というベッキーの言葉

→この番組を一言で総括するとしたら、これではないかと思います。

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<番外編:BGMについて>
全編通して、優しく寄り添うような音楽が使われていると感じました。
どの曲も、いろんなサイズ、色、形のカラーボールが、日光を受けながらポンポンと弾んでいるようなイメージを受けるような曲。(個人的には、実際の使用曲とは全く毛色が違いますが、SONYのBRAVIAの Bouncy Ballsというムービーが思い浮かびました。)
「ダイバーシティ」をテーマとするこの番組に、とても合っていると感じました。

以上、「ベッキーと未知との対話」を見て、私が抱いた感想でした。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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