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イエローマンデー ~episode Ⅰ 友達の有効期限 地下鉄の蝶 お姉ちゃんを返せ~

 友達の有効期限。そのことばが頭に浮かんだのは寒い月曜日の朝でした。上着のポケットにあるはずのパスケースが見つからず、地下鉄の駅で立ち止まってしまったのです。朝の混雑する駅で急に足を止めた人間など、うとまれこそすれ誰もやさしくなどしてくれません。いきなり背中に衝撃を感じたかと思うと、初老の男性が舌打ちしながらぼくを迂回して、自動改札機に器用な手つきで定期券をすべりこませたかと思うとホームの灰色にまぎれて消えました。ズボンのポケットにも鞄にもパスケースはありません。おそらく昨日着ていたスーツのポケットに入ったままなのでしょう。その間にいったい何人がぼくを追い越して消えたでしょう。まるで時間制限があるかのようにみんなすごくあわてています。券売機に向かいながら、ふと思ったのです。ぼくの友達は、誰もがある一定期間すぎれば友達でなくなってしまいます。ひょっとすると、友達には有効期限というものがあるのではないだろうか。ぼくの友達はみんなベルトコンベアーみたいなものに乗っていて、期限がやってくれば、それが動いて、はい、終わり、じゃ、次の人、という具合に、自分だけが一か所にとどまっていて、その人たちはどんどん移動してぼくの前からいなくなってしまうようになっているのではないだろうか。
 切符を買って、ホームに入ったらすぐに地下鉄がやって来ました。車両に乗りこむと、独特の臭気が鼻をつきます。けっしていい香りとはいえないのに、この臭いをかぐとほっとするのは脳が変化を嫌うせいでしょう。昨日と同じであることに安心するのです。いつものように、車両の奥まで進んでドアにもたれかかり、目を閉じました。降りる駅に着くまでの二十分ほどの間、こうして眠るでもなく何を考えるでもなくすごすのが好きなのです。ふだんならば、しばらく目を閉じていると、まるで深海に沈みこんでいくような心地よさに全身が満たされていくのですが、なぜかいつまでたってもそうはなりません。どうにも形容のできない違和感をおぼえて目を開いてしまうのです。周囲を見回してみても、その理由はわかりません。しいて言えば、改札で手間どったために、いつもと同じ時刻の列車ではないということが違うと言えば違うのですが、乗客の顔ぶれを普段から気にしているわけではないので、それが原因とは思えません。定まらない気持ちのまま車内を見回していると、目の先の吊り広告の隅が、大きく半円形に破れて欠落していることに気づきました。その破れ具合からして、誰かが転びそうになってつかまったという感じではなく、意図的に破られたようなのです。道端でいきなり見知らぬ他人に殴りかかる人間もいるくらいですから、わざと広告を破る人がいても不思議でもないのですが、どうもしっくりこない気持ちがぬぐえません。じっと凝視していると、破れ目の形が地図で見たことのあるどこかの入り江のように見えてきました。
 ふいに、広告の破れ目のところがにゅっと浮き上がって大きな蝶が現れました。びっくりして、思わず声をあげてしまいました。さっきからずっと鼻を押さえてばかりいた中年女性がぼくを鋭い目で見上げたので、喉の調子が悪いふりをして咳ばらいをしながら、もう一度見てみました。やはり、蝶はそこにいます。広告の紙面にぺたりと広げた羽は黒地に黄色と紫と赤が混じったような色合いです。何もなかったところにいきものである蝶がいきなりわいて出てくるということはありえません。なおも目をこらしてみて、ようやく腑におちました。どうやら羽の色が広告のデザインと似ているために、同化して気づかなかったようなのです。子供のころに実家でよく見かけたアゲハ蝶より少し大きいくらいですが、こんな奇妙な色合いの羽は見たことがありません。いずれにしろ、都会の地下鉄の車内にこんな大きな蝶がいることは不自然に思えてなりません。広告の破れ目をなでるようにゆっくりと移動しているので蝶が広告を食い散らかしたようにも思えてきますが、紙を食べる蝶なんて聞いたこともないし、乗客たちは蝶に気づいていないのか、気づいているが何とも思わないのか、誰もが素知らぬ顔をして携帯電話をいじったり新聞を読んだりしているのです。まるで世界からはじき出されたような気持ちで周囲を見回していると、向かいのドアにもたれている女子高生と視線が合いました。ありふれたセーラー服に肩のあたりまで黒髪をたらしたごく普通の女子高生です。ぼくはすぐに目をそらせたのですが、その後も、視線を向けられているような気がしてならなかったので、路線図を見るふりをそれとなく確かめてみました。彼女はじっとぼくの顔を見つめたまま視線をそらそうとしませんでした。胸がどきどきしましたが、それはうれしいというよりも、むしろ不安からでした。というのは、ぼくは今年三十五歳で、年齢よりは若く見られることが多いのですが、見知らぬ女子高生に好意を抱かれるような容姿とはほど遠いですし、女子高生の視線は好意というよりもむしろ何かを確認しているような冷ややかな色をおびていたからです。
 地下鉄が、最初の駅に近づいてスピードをゆるめ始めたとき、女子高生がドアの前を離れて、ぼくに近寄ってきました。身構える暇もなく、お姉ちゃんを返せ、確かにそう聞こえました、凛とした声とともに彼女の右手がぼくに向かって振り下ろされました。驚く間もなく、反射的に身をよじってよけながら刃物のように光るものが頭上の広告にぶつかるのが見えました。どよめきとともに、乗客が左右に分かれたそのむこうに女子高生がぼくをにらんで立っているのが見え、鼻先を蝶がひらひらと舞いました。ぼくの背中でちょうどドアが開くのと同時に、誰かに右手首をつかまれました。次の瞬間、はやく、と耳元で声がしたかと思うと、ホームに引っぱりおろされました。その際に何かを踏みつけた感触がして目の端で見ると、車両の床にねじこまれるように蝶が張りついており片方の羽がちぎれていました。女子高生がぼくを追って降りようとしています。手を引かれるままにホームを走りながら、目の前で揺れる古いテントを思わせるコートと、薄くなりかけた頭頂部に見覚えがあるような気がして頭をめぐらせましたが、思いだせません。階段を降り、逆方向のホームに続く地下道に出たところで、やっとその人は足を止めて、もう大丈夫でしょう、とぼくの手首を離して振り返りました。

   (episode Ⅱにつづく)

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