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アゲハ

 夢のつづきではなかった。ぱたぱたという音は確かに胸のあたりで聞こえていた。ぼんやりした意識のまま右手でふとんをめくりかける。ぱあっとこまかくうごくものが顔の前いっぱいに広がって声をあげるまもなく薄目の視界から消えた。寝起きの認識するちからがぼやけたまま胸だけがどきついている。ふとんを完全に足元まで押しやってはっきりと開いた目に映る天井にふわふわとなにかが舞っている。得体のしれないものをまのあたりにして恐怖に全身がこわばったが、ただの黒いものが意識の中でだんだんとはっきりとかたちにまとまってくる。むっくりと上半身だけ起こし、そいつを見つめる。正体ははっきりしたがなぜそいつがあたしの部屋、というか、あたしのふとんの中から出てきたのかという謎が解決したわけでもなく、また別の恐怖がこみあげてくる。まさか、あたしのからだの中から出てきた?。そんなバカな考えがわくほどあたしは寝起きが悪い。子どもの頃は、春先になると学校の行き帰りに気持ちの悪いくらいどこにでも飛んでいたアゲハチョウだが、最近めっきり見かけなくなった。天井のあちこちにぶつかりながら飛んでいるそれはあの頃の半分くらいの大きさしかない。玲子、早くご飯食べてしまって。台所から母のいらただしいダミ声がしてきてあたしは自動的に跳ね起きて急いで寝間着を脱ぐ。服を着ている途中にアゲハチョウはとつぜんあたしめがけて急降下してきて、あ、と声を上げると窓にぶつかった。羽根がガラスを叩く音が嘘みたいに大きく響く。灰色しかないあたしの部屋に黒の黄色のまだらがそこだけきりとったみたいに動いている。細かく揺れる羽根がたまらなくいらただしげで悲しくて、いたたまれなくなって窓を大きく開いた。待ちかねていたようにそいつは窓の向こうに飛びだして、少しだけ、風のちからで、右に流されたが、すぐに、庭の木々の間を抜けて塀と電柱のあたりをふらふら飛び回った。春の空が塗りつけたように真っ青で草の匂いのする風が気持ちよかったので、しばらくぼんやりしていると、玲子! と今度は怒鳴り声に近かったのでいよいよやばいと思って、窓を閉めて、台所に行く。もう出るから、早く食べて。洗濯とお風呂の掃除、今日はちゃんとやっとかないと承知しないよ。仕事もしないでぶらぶらしてるだけなんだから、そのくらいやりなさいよ。言い残して母は出て行った。あたしは冷たくなった味噌汁とご飯をかき込んで、食器を洗い、洗濯機をまわし、お風呂場の掃除をするまえに庭に出た。アゲハはもうどこにもいなかった。あの子は、ほんとうにあたしの中から生まれたのかもしれない。あたしの代わりに本当に自分の行きたいところに行ったのだ。(了)

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