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なんにもしない日

朝、目が覚めて時計を見ると六時だった。今日は日曜日だ。もう少し寝ていようと目を閉じるが眠れない。六時起きに順応した体はもう起きるモードになってしまっていた。しかたなく顔を洗い、コンロにやかんをかけ、テレビをつける。ソファに座って朝刊を広げ、今日の予定に頭をめぐらせる。例のプレゼン資料にそろそろ着手しなくては。思考が動きかけたところで、今日が休日であることを思い出し、仕事を頭から追い払う。秋物のシャツでも買いに行くか。そうだ、見たかったあの映画をその後で見に行こう。上映時間を調べようとスマホを探していると、やかんがけたたましく音をたてたので、キッチンに走りコンロの火を消した。そこで思わず「あ~~」と叫んでしまう。

 今日は日曜だ。休日なのだ。にも関わらず平日とまったく同じ生活パターンの朝を過ごし、しかも一日の予定をたてるなどと自動的に仕事っぽい行動に走っている自分は一体何なのだ。休日とは、何をしても自由な日のはずだ。そんな緻密に行動の予定をたててはたして自由といえるのだろうか。
 コーヒーを飲みながらおれはふとあることを思い出し、決心した。今日は「なんにもしない日」にする。先日読んだ本に提唱されていた自分を取り戻す方法だ。詳細は以下の通り。

『現代人はテレビやネットなどにあふれかえる過多な情報に踊らされ常に何かをしていないと不安であくせく動きまわり本当に自分が何を望んでいるのかわからなくなっている。ゆえに時折「なんにもしない日」を設定しスマホなどの外部からの情報を一切遮断し、木々の葉や風に踊るカーテンを眺めひたすらぼんやりする時間を作るべきである。普段雑音に覆い隠されている自分の真の心の声が聞こえ必ず新鮮な気づきがあるはずである』

 おれはいたく感銘を受け近日中に実行しようと思っていたのだが忙しさにかまけてすっかり忘れてしまっていた。今日こそ実行だ。テレビを消し、ソファにごろりと横たわった。
いざやってみると、「なんにもしない」というのは意外と難しかった。気づけば無意識に新聞やテレビのリモコンやスマホに手が伸びた。横になっている姿勢がリラックスしすぎてダメなのかもしれないと、とりあえず体を起こした。目の前に広がる壁をぼんやり眺めているうちにおれはあることに気づき、壁に近づく。壁紙は薄いクリーム色でグリーンの細い線が縦に走っていた。ずっとただの白い壁だと思っていた。引っ越してもう五年になるのに。
 妙な感慨にふけりながら壁を見回していると、テレビの横の壁紙が一部剥がれているのが目にとまる。暗い気持ちになる。実はそのことにもう何ヶ月も前に気づいていたのだ。目にとまるたびに、次の休みに補修材を買いに行こう、とその時は思うのだがすぐに忘れてしまうのだ。「家の中の不具合がある箇所には悪いエネルギーが溜まり運気がさがるのですぐに補修しましょう」。例の本にはそうも書かれていた。補修材を買いにホームセンターに行こうかとも思ったが、今日は「なんにもしない日」なのだ。おれは、またソファに戻る。

 窓の外の雲を眺めながら、どうしても意識は壁紙に戻ってしまう。下の部分がぺろりとまくれ上がって不格好きわまりない。見ないようにしようとしても見てしまう。気づいていながら、どうして今日までほったらかしにしていたのか。面倒なことは何でも先送りにするのが昔からのおれの悪いくせだ。その性癖がおれの人生にどれほど悪影響を及ぼしてきたことか。剥がれた壁紙が、おれという人間のダメな部分の象徴のような気がしてどんどん気持ちは暗くなる。補修材を買いに行く? だめだ。今日は「なんにもしない日」なのだ。決めたことを守らずすぐに挫折するのもおれの大きな欠点のひとつだ。おれはなぜこうなのだろう。こんなことだから四十手前になって結婚もできないし、営業成績も新人に抜かれるというみじめな人生を送っているのだ。おれの意識内はいつのまにか壁紙を超越してこれまでのつらい出来事の記憶があぶくのように次々と浮かびあがり、いてもたってもいられなくなり、おれはベッドにもぐりこんで布団をかぶった。

 ふと気づけば、部屋は真っ暗だった。いつの間にか眠り込んでいたようだ。気持ちは意外なほどすっきりしていた。よく眠ったせいもあったが、なんにもしないことにより浮上した心のゴミが眠ることによって排出されたかのようだった。すごい効果じゃないか。ぜひ習慣にしようとおれは決心した。

 翌日からまた仕事に追われる毎日が始まった。「なんにもしない日」のことはおれの頭からすっかり抜け、二度と実行されることはなかった。壁紙はいつまでも剥がれたままだった。
(了)

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