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母さん、ごめん。50代独身男の介護奮闘記 [松浦晋也 著] の紹介と、私の介護奮闘中(現在進行形)

 本書は、自分の親が「高齢者」と呼ばれる年齢に達した際に、すべての人が「前もって」手に取るべき本です。冒頭にこれは強く記しておきます。

 親の介護というテーマに対して、「自分が行うことになると思うけど、まだまだ先の事だ」という印象を持つ人はもちろん、「田舎には○○がいるから大丈夫」といった方にも(方こそ)読んでほしい本です。

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(Amazonリンクはアフィリエイトとかしていませんのでお気軽に)

 いや、もう少し強い言葉を使ったほうがいいかもしれません。本書という経験を見過ごすと、いざ自分の番が回って来た時に、かなり厳しい状況に追い込まれ可能性が高いです。物理的に、経済的に、そして何よりも精神的に。

 本書は、これを読めばすべてが解決される「魔法の言葉」が書いてあるわけではありません。また、考えられる状況に回答を添えた「ハウ・トゥー」でもありません。そういう視点では、特別に新しいことが書いてある訳ではないのです。その代わり、現在における介護で起こりうる、社会的リソースを含めた実態が、ほぼ全て正確に記載されています。

 これは何を意味するかというと、著者である松浦晋也さんが、最初から最後まで「経験した」事に他なりません。本書は1caseではありますが、普通にやっていくと、かなり高い確率で「一通り」経験することにります。介護とはそういうものなのです。それがサブタイトルの「介護奮闘記」の位置づけとなります。

 だからこそ「前もって」本書に接しておくことが重要なのです。それこそが、著者の最大の望みであるはずです。そして共感した私が、このnoteを書く目的でもあります。

 著者の松浦晋也さんは、科学、特に宇宙工学の分野で活躍されている方です。当然にロジカルな思考の持ち主で、指摘や詳察もかなり的確です。文章にもそれがよく現れています。介護を語るには、強すぎる文章も散見されすのですが、それこそが、介護を経験したことがない人に「届け!」という、著者が本書に込めた強いメッセージになっています。

 それでも、介護経験のない人には、充分伝わらないかもしれません。しかし、「こういう事が起きるのだ」という事を知るだけでも、充分な助けになるはずです。イメージを持つことは何時の世も、何事においても有効な伴走者となり得ます。

 本書を読んだ後、タイトルに違和感を感じる人も多いと思います。「ごめん」に該当するエピソードは、ほんの一部でしかないし、私からすれば、それすら謝るような内容ではありません。恐らく介護の当事者になるまでは理解できないと思います。

 私は、介護という意味では3人の家族と接してきています。2人はパーキンソン病、1人は認知症です。そのうち認知症を含む2名が現在進行形で、更にもう1人予備軍がいます。恐らく、同年代の他の人よりも多く、介護を経験していますし、それは今後も続いていくのです。

 私は本書を読みながら、何度も吹き上がってくる感情に、本を一旦置かなければなりませんでした。著者の理論的な強い言葉にではなく、登場するエピソードにでもありません。悲しいでも、苦しいでも、切ないでも、それは言葉としては適切ではないのです。

 吹き上がってくる「もの」を総体として表現しようとすると、私も「ごめん」という言葉しか選べない事に気づきます。本書のタイトルは、これ以外ありえないのです。

 ここから先は、私の介護経験のエピソードが増えることになります。具体的には3つのエピソードを紹介します。松浦さんのCase、すなはち本書の内容に、私のCaseを重ねることにより、介護という現実を少しでも多くの視点から、立体的に浮かび上がらせたいのです。

 本書を手に取る「きっかけ」になればいいと願うと同時に、読んだ後も「介護とはこういう事だ」という厚みになることを目的として、このnoteを書きます。結果的に本書の紹介から、少し離れることになります。

 その前に冒頭の言葉を繰り返します。

 本書は、介護という戦いに望む前に、知っておいたほうが良い、ひとつの戦いの詳細な記録なのです。

■介護は持久戦である[楽をするということ]

 私は建築技術の世界に身をおいています。いきおい、周囲にはロジカルな考えを持つ人間が多くなります。また、50代は必然的に、親の介護と死に向き合わなければならない年代です。

 周囲に「介護することになった」という人がいれば、私は例外なく「介護は持久戦だから、楽をすることを考えないと続かないよ」と言い続けてきました。先輩にも上司にも、アルバイトのおばちゃんにも。

 女性の方が、すんなりと私の意を汲み取ってくれているように思います。おそらく、生活をベースとしたイメージがあるのでしょう。一方でロジカルなオッサン連中には、なかなか届きません。ロジカルな人は生真面目というか、世の中の型どおりに動く傾向が強いようです。かなり苦労している段階で、同じ言葉を投げかけても、もう響きません。響く余裕が無くなっているのです。(この事は本書にも記載されています)

 その意味で、著者もロジカルグループだったのです。もし、私と松浦さんが友人で、私が同じアドバイスをしても、同じルートを歩んだかもしれません。これはひとえに、私の言い方には、具体的な説得力がなかった事が原因です。

 松浦さんは、自らの経験を正確に記すことで、私がしたくても出来なかった、周囲の人々への働きかけを、完全な形で本書にまとめています。読んでいて吹き上がってくるものがあると書きましたが、正直に言うと、その時は涙が滲んでいました。もう50代も半ばのオッサンでもこの有様です。

 松浦さんが、自らの経験を振り返り、本書を書いたときにも、こみ上げなかったはずはないと、私は思います。きっと疲弊しきった精神の中で「伝えなければ」という、ただその一心で書いたのが本著なのです。

■頼れるものは何でも頼れ[荷物はそれでも重い]

 ここから先は、私の経験と、本書の内容が完全にかぶってしまいます。私も筆者も同じ経験をしているので仕方がありません。程度の差こそあれ、介護に向けた心構えや経験は、同種のものに修練していきます。

 まずは「頼って」ください。元気なら親でも、兄弟でも、近所の人だって構いません。巻き込める人を全員、片っ端から巻き込んで、ありがたく頼ってください。「申し訳ない」という気持ちには、意識的にぎゅうぎゅうとフタをするくらいで丁度いいです。

 物理的にも、精神的にも、プレイヤーを増やしてパイを分割する。これは何をおいても最初にやらなければならない戦略です。パイはどんどん重くなっていきます。そして軽くなることは無いのです。

 生活の延長として介護が定着すると「頼る」という発想に辿り着きにくなります。父の介護に際して起こったエピソードを例に引きます。

 父はパーキンソン病が進行し、老老介護をしていた母も、元気ではあるが手助けが必要な時期にありました。

 私と妹は予め役割分担を決めて、通院や公的介護リソース、自治体との調整、お金の遣り繰りといった、面倒くさいことを私が受け持ち、当時、実家に(私よりも)近く、フリーランスで時間の自由度の高い妹が、生活面のサポートをすることにしました。介護する側の得意分野と、生活状況に応じてパイを分けたのです。しかしこれは失敗に終わります。

 我々(兄妹)にとって、これはCase2になります。公的介護リソースも、既にフル導入していました。そんな中で母が腹痛を訴えます。妹は「生活の一環として」最寄りの主治医に連れていき、主治医の判断で(これには本当に感謝です)大きな病院での検査になりました。

 同日、タクシーで移動し、大病院での検査を受けた結果、即日入院、数日後に投薬で炎症が収まったら手術、という事態に急展開します。幸いな事に、早期であれば深刻な事態に至らない手術でした。妹は入院の手続きを済ませ、実家と病院と自宅をタクシーで行き来しながら、入院に必要な生活用品を準備するとともに、一人では生活が成り立たない父の対応として、仕事で必要なサブのiMacを実家に移設します。

 私はこの状況を「たまたま」別件で連絡したケアマネージャーさんから知らされました。入院から3日が経過しています。妹に電話やメールをしましたが返事はありません。職場に休暇の申請をして実家に走ります。そこには憔悴した妹がいて、介護ベッドで眠る父の横で、妹はこう言いました。

「あー、兄だー。なんだか神様に見えるよ。そういえば連絡するの忘れていたよ。こめんなー」

 すぐに状況の引き継ぎをして、妹を自宅に帰します。ケアマネさんに電話をすると、夜にも関わらず対応してくれて、おおまかなショートステイの目処が立ちます(このケアマネさんは、本当に「当たり」なのです)

 上司に電話しますが、時間外なので出ません。職場に電話すると残業をしていた同僚が出てくれて、有給の申請を代理でしてもらいます。(この事が職場での軋轢のスタートになります)

 繰り返しですが、我々の介護経験としてはCase2、2例目です。それでも、目の前の問題を解決しようとすると、誰かを頼るという意識が飛んでしまいます。ましてや初めて介護をする人は、なかなか辿り着けないのです。

 「〇〇がいるから大丈夫」という意識は、家族を大事に思うなら、今すぐ捨てて下さい。お節介なくらいに介入して、事実を「複数の目」で確かめながら考え、ワークを均等に割るくらいの気持ちで丁度いい、それが介護です。

 本書の中でも、松浦さんは一人で奮闘し、極限まで疲弊し、弟さんに「兄貴、ぜんぶ自分で抱え込んじゃダメだ!」と言われて初めて「頼る」という選択肢に気付いています。

 モノを設計するときにはシステムに助長性をもたせ、フェイルセーフを組み込むのは鉄則と言えます。特に宇宙工学に明るい筆者であれば、当然に気づく内容です。それでも見えなくなる。それが身内を介護する難しさなのです。

 公的介護リソースの受け方については、本書にも詳しいですし、netにも情報が沢山あるので、ここでは完結に記すに留めます。

 市区町村のwebsiteの中に、介護を所管する部署の案内が必ずあります。わらなければ代表電話でも、その旨を伝えれば適切な部署に繋いでくれるはずです。ケアマネージャーがキーパーソンになりますが、その能力は属人的になるケースも多いです。不安があれば「変えてもらう」事も、必要な勇気として、ここではあえて強力にアドバイスします。

■介護は突然、セットでやってくる[老老介護の危うさ]

 上記の両親の例でも、母の手術をきっかけとして、一瞬で介護が破綻しかけました。次に紹介する、私にとってのCase3のエピソードはもう少し深刻です。

 義母が脳溢血で倒れたという報を、私は現場で受けました。現場服(いわゆるドカジャン)のまま、病院に駆けつけると、泣きはらした妻がいます。

 妻の両親は、都内ですが交通の便の悪い、不便なところに住んでいます。義父は認知症が進行し、神経内科で投薬治療を受けています。攻撃性は出ておらず、忘れてしまう以外は普通の生活が可能です。

 義母は病院嫌いで、もう何十年も(自分のことで)医者に行っていません。お年寄りは我慢強いというか、そうとうしんどい事でも我慢してしまいます。これは私の母も一緒です。

 妻からの話を聞いて愕然としたのは、義母の病状(それは深刻なものでした)だけではありません。病院に搬送されてから、最初の連絡を受けるまで、24時間以上空いているという事実です。

 ここから先は推測になります。義母が倒れた時、恐らく義父が119番通報をします。義父は一緒に救急車に乗り病院に行くのですが、義母が処置を受けている間に、自分がなぜ病院にいるかを忘れてしまいます。そして、どうやってかは分かりませんが、自宅に帰ったのです。財布は紛失していました。

 病院は義父が認知症だとは気付いていません。既に家族には連絡済みと認識しています。これは奇跡のような幸運なのですが、「たまたま」遠くに住む親戚が、車で近くに来たからと家を訪れると、義母はおらず、義父は寝ています。玄関の鍵は開いたままです。

 義父を起こしても、義母の不在について何も覚えていません。ちゃぶ台の上にあった病院の書類を見て、何かあったことを悟ります。病院に連絡して初めて、救急搬送された事実を知り、その親戚が、妻に連絡してくれたのです。

 ここから先は戦争になります。脳溢血の場所が、残念ながら手術では手が出せない部分でした。検査を進めるうちに、比較的新しい梗塞を含めて、いくつもの脳梗塞部位が見つかります。糖尿病も相当進行していたことが判明します。

 義母の意識はなかなか戻りません。声掛けに反応した眼球の動きや、うめき声に一喜一憂しながら、日々消費される紙おむつやウエットティッシュを病室に収めていきます。

 これと同時進行して、義父の介護もハードランディングさせなければなりません。要介護認定を受けていないので、自治体にコンタクトし行政と病院との日程を睨みます。同時に自治体経由でケアマネージャーを紹介してもらうのですが(これも本来は無理筋です)残念ながら、私よりも知識がない人や、状況を説明してショートステイ先を紹介してほしいというオーダーさえ飲み込めない人に当たってしまいます。淡々と交代をお願いして、3人目でやっと、介護について話ができる人に出会いました。(年齢とは関係なく属人化された資質です)

 それでも、義父の「介護」と、義母の「医療」は別の文脈です。相当に経験を積んだケアマネさんなら、これらを含んだケアプランが立てられると思いますが、残念ながらそこまでは届きません。結果、施設の状況を教えてもらった上で、カレンダー上に自分たちでケアプランを作成し、ケアマネさんにフィードバックして施設との調整をしてもらうことで落ち着きました。

 老老介護は、元気な方になにかあった瞬間に崩壊します。危機は介護だけではなく、医療もセットで付いてくると考えたほうが自然です。私はCace3としての経験ではありましたが、今回は、介護も医療も、マイナスからスタートとなったので、軌道に乗せるのは並大抵のエネルギーではありませんでした。

 離れて暮らす実家のご両親の状態を、「いま元気か」だけではなく「要支援(軽い状態)や要介護(重い状態)に照らして、どの段階にあるのか」を含めて把握することは、いざ何かあったときに「少なくともゼロから」スタートを切る上でも大事な事です。ご両親にしても、あまり話したくない話題だと思いますが、必要なことは信念を持って「確かめておく」事は、関与する全員を救うことになります。

■介護はつづくよどこまでも[続けていける体制が大事]

 今回の件で、最初から私は、妻とツーマンセルで事態に対応すると決めていました。一人ではとても受け止められる事態ではないのです。物理的に、何より精神的に。義弟は家族との関わりに否定的なので、物理・経済的側面に限定してパイを切り分けます。

 ショートステイを乗り継ぐときに、施設Aから施設Bに直接移ることは出来ません。施設Aから迎え入れる日、自宅で泊まる日、施設Bに送り出す日の3日が必要になります。年金と入所費用のバランスを見て(当然ショートしています)現実的で、継続可能なラインを導き出した結果が、我々が職場を休む日になります。

 同時進行で継続的な入所先を探すことになります。いくつかの施設を見学し、良さそうな施設に併願でエントリーします。義父の状態からすればグループホームが相応なのですが、どの施設も何人もの入所待ちの方を多く抱え、いつ順番が回ってくるかは分かりません。介護施設にとって、空きが出るという事実は、より重症化して他施設に移るか、亡くなる事を意味しています。長期戦の布陣が必要なのです。

 残念ながら、義母は意識を回復することなく、亡くなることになります。先日、一周忌でお墓に会いに行ってきたところです。

 義父の介護といっても、職場を休むこと以外は、物理的に大変なことはありません。ただ、義父は私の顔を忘れてしまい、一日に何度も自己紹介をすることになります。そして、義母の死も忘れてしまうので、何度も事実を伝え、お線香を上げて悲しむ義父に寄り添うことになります。徘徊が心配だったので、散歩がしたいといえば、のんびりと近所を一周します。

 風景としては、冬晴れの青空の下、義父を視界の隅に捉えながら、ゆっくりとタバコを吸い、自転車で行き来する小学生に「前見て走れー」と声をかけ、野良猫にちょっかいを出すような平和なものです。そして、また義父との無限の会話に戻っていくのです。

 幸いなことに、半年ほど過ぎた後に、ショートステイをお願いした施設の一つが特養老を併設しており、特養老で良ければ空きがあると知らせてくれました。入所は申し込み順ではなく、各家庭の介護の困窮度を考慮してくれます。これで一段落です。幸運なことに、申し出をしてくれた施設は、義父が「割と気に入った」施設でもありました。

 この騒動と同時進行で、私は自分の父の介護も行っています。ただ、切り分けられたパイを少し妹に頼ったことで、成し遂げることが出来ました。

 大事な事は、物理的、経済的、精神的に体制としてのパイを切り分けた上で、自分に余裕を持たせることです。介護の中で「ああ、今日は空がきれいだなー」と思えるくらいの余裕は、いつまで続くかわからない介護に向き合い、それを継続していくためには、とても大きな意味を持つのですです。

■大変なのは認知症だけではない[高齢者ってこういうものだ]

 私の経験が長くなってしまいましたが、もう一つだけ。

 松浦さんは認知症という、家族にとって一番精神的にしんどい介護をなさいました。私もCase2でそのしんどさはの一端は経験しましたが、認知症以外の介護も、なかなか難航します。私にとってのCase1です。

 母の姉、つまり私の叔母は、高齢になっても長い間一人暮らしをしていました。巡回医と田舎ならではの隣人との距離の近さに支えられていたと言えます。しかし、パーキンソン病を発症してから事態は変わります。

 私も母も、実家で一緒に暮らすように何度も説得しますが「あんたたちなんかの世話にはならない」の一点張りです。口は悪いのですが、高齢者の多くは「人に迷惑をかけたくない」という思いが、根底に強くあります。

 ある事件を境に、状況は急展開します。夜に台所に立った叔母は転倒し、骨折します。一晩中痛みで動けず、台所に倒れたままの姿勢で、翌朝訪ねてきたご近所さんが発見します。即入院です。

 病院で一時的な処置を終えた後、本人が何を言おうと完全に無視して、実家に近い病院に転院させます。折を見て住民票も実家に移します。書くと簡単ですが、何をするにも常に怒鳴り合いです。

 もともと港町で口調が強いことに加えて、学校を出てすぐ田舎の警察署に就職し、定年まで勤め上げた経験が無敵の自信になっています。恐らく、警察署内では「大お局」だったのでしょう。若い警察官はおろか、警察所長にも説教をしたとうそぶく人物です。

 パーキンソン病が進行し、嚥下機能が低下した時点で、特別養護老人ホームに入所することになるのですが、今となっては笑い話、当時は頭を抱える事態が頻発します。

 ホームでの食事は嚥下しやすいように、片栗粉を混ぜるのは定番の処置です。これを見た叔母は「毒殺しようとしている」と大騒ぎし、ホーム内の公衆電話で110番通報し、同時に証拠である食事の皿を持って、ろくに動けない体に鞭打って、タクシーで保健所に行こうとします。

 流石にホームの人も困り果て、私に連絡が入ります。子供のいない叔母は、私と妹を可愛がり、「ほんの少しだけ」私の言うことを聞くのです。

 当時の職場から、片道1時間半ほどかけて、何度も通うことになります。携帯電話にホームの番号が表示されるのは、当時は本当に恐怖でした。

 これは極端な例ですが、一般的に、高齢者が自分の衰えを受け入れるのには時間がかかります。そして、受け入れる速度より、衰える速度のほうが早いのです。

■介護の中に楽しみを[介護と娯楽をセットにする]

 著書の中で松浦さんは、愛車であるAX-1を積極的に使用しています。もちろん、機能性を追求した結果ではあるのですが、愛車に跨り風を切って走ることは、ほんの一時だけでも、気分転換になったのではないかと想像します。そして、シネコンで映画を見ることで、現実とは違った世界に触れ、精神のバランスを取っていたのです。

 私も介護に向かう際には、意図的に好きな乗り物を選んでいます。近距離でもCB1100を引っ張り出し、タンデムの妻と「桜が咲いたねー」とヘルメットの中で無線通信しながら超ショートツーリングです。介護というシークエンスに「非日常」を滑り込ませるのです。

 いまは実家のそばに居を移したので、趣味の自転車を気分によって乗り分けて移動しています。

 また、病院や入所施設、実家といった行き先に合わせて、道中に安くて美味しいお店を見つけています。特別高いものである必要はありません、例えば今日も実家に寄ってきたのですが、帰り道に500円の海鮮弁当を出す店があります。悲しくても腹は減るといいますし、美味しいという根源的な喜びは、随分と助けになるものです。

 外に出る余裕もないという方には、YouTubeでもいいかもしれません。このチャンネルは、私も疲れたときにはよく観ます。焚き火をぼーっと眺めているだけで、随分と心が落ち着きます。なにかを考え込んでしまって、眠れない夜には、聴くだけでもいいかもしれません。

 漫画や読書が好きな人は、長編の連載モノを電子書籍で買って、スキマ時間にスマホで読むのもいいかもしれません。とにかく、頭の中を「介護だけ」に占領されないようにすることは、長い介護生活の中では、大切なことなのです。

■介護に対する社会認識[育児も大変だけど、介護も大変]

 社会では、子育てを支援する動きが高まっています。これはとても良いことです。産後休暇に加えて、男性の育児休暇も大きく認められ、かなりまとまった休暇が取れるようになってきました。イクメンなどという言葉も出てくるほどです。

 一方で、介護に関してはどうでしょうか。介護離職の問題は、もう10年近く前から叫ばれているように思います。しかし、介護休暇は、私の属する組織では、被介護者一人あたり年に1週間程度が現状で、しかも合計の上限日数が低く決められています。これは、ケアマネとの打ち合わせや、通院の付添いだけで簡単に使い切ってしまう日数です。また、私はまだいい方で、妻の務める組織には介護休暇制度すらありません。

 私は、自分が行ってきた介護が間違っていたとは思いません。むしろ介護リソースを最大年に使い、人間として親の介護にどう向き合うかを自問自答し、とことん疲弊しながらも、最短コースを選んだつもりです。

 しかし、介護休暇に合わせて、有給休暇を使い果たす時期になって、上司から叱責を受けます。

 「長」と名のつく役職の人間が、こんなに休まれては困る。義母の介護に(妻がいるのだから)そこまで時間を割く必要があるのか。前日の夜や当日朝に休暇申請するのも、部下への示しがつかない。

 そんな内容でした。怒りで言葉も出ない中「じゃあ、あなたが親を介護するときにはそうしなさい」と言い残して席を立ちました。そして午後、子供が熱を出したといって、上司は育児休暇を取ります。そういえば彼は次男でした(怒鳴っておけばよかった)私と、組織との軋轢が深刻なものになっていきます。

 出産や育児と違って、介護は復帰へのタイムスパンが読めません。その事が介護を積極的に認める動きにシフトしづらい事もわかります。育児と介護のストレスを同じ土俵で比べるのも、ケースバイケースなので意味はありません。

 しかし、子供にしろ、介護状態にある高齢者にしろ、誰かが付いていなければ、成立しない事実は変わりません。リソースを活用するにしても「保育園落ちた日本死ね!!!」と同じ事態が、介護施設ではもっと昔から、深刻に存在しています。

 国も、高齢者医療費の増大と社会不安を前に、介護の必要性を「オブラートに包んでいる」ように見えます。人間として、自分の親を誠心誠意介護したいという気持ちは、社会の中では、個人的な特異な事例として扱われます。介護離職は、残念ながら今後もっと増えていくでしょう。

 あらゆる差別に対して批判的な態度を取り、公平性を求める動きは、最近では一般的になってきています。この事自体はとてもいい事だと思います。翻って考えてみると、誰かの介護をする人々は、社会的マイノリティーなのかもしれません。そして、声を上げることが出来ないほど疲弊しています。そして、介護は誰にも起こりうる人生の一場面なのです。

■最後にお口直し[松浦晋也さんとの出会い]

 随分と長く、重い話を続けてしまいました。ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

 最後は口直しというか、気軽な話で締めくくりたいと思います。松浦晋也さんとの出会い、というか、私が初めて松浦さんの存在を知ったときのエピソードを記します。

 本書を読む直接的なきっかけはtwitterでした。「介護、50代」のキーワードで興味を持ち、本書を買ったのです。当然、松浦さんをフォローしています

 名前に見覚えがある、でも宇宙工学関係じゃない。はて?と考えつつ、ブログを見ていてわかりました。リカンベントです。記憶が一気に10数年過去へ飛びます。

 私はBike-Eというリカンベントに20年近く乗っています。リアフォークがリベット留めの初期型です。画像を遡ってみると(PCをクラッシュして失ったデータもあるのですが)2005年のサイクルイベントに参加した写真が見つかりました。恐らく、その1~2年前に入手したのだと思います。

 いまでこそマイナーな(日本語が変です)リカンベントですが、当時は更に、変わり者しか乗らない自転車でした。当然、情報も少なく、インターネットにある情報は貴重で、その数も限られてきます。そんな中、都市交通の可能性や、前輪駆動リカンベント構想、BD-1をリカンベントに改造して楽しんでいる。それが松浦さんだったのです。

 当時見た記事は、いまとフォーマットが違ったように記憶しています。ブログを乗り換えたか、スタイルシートを変えたのかもしれません。

 このnoteで「もし松浦さんと友人だったら」と書きましたが、もしかしたら実際に、どこかのサイクルショーやイベントですれ違っていたかもしれないのです。

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レストアを繰り返す私のBike-Eと、妻のFDB-140


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